5.コヤ河救護班のこと
独歩三六七大隊本部付軍医 神足富夫
私は昭和二十年二月十一日タワオ台地の懐かしの医務室より転進命令により部隊と共に行動を起しタワオより約八日程の行程のコヤ河とキナブタンガン河との合流点に設営された救護所勤務を命ぜられました。この救護班は家村部隊(独混第二十五聯隊)の北川中尉を長とする衛生部員(小生以下七名)兵科十三名で編成されていたように思います。北川中尉、加藤憲兵曹長、室衛生軍曹(家村部隊)小堀衛生伍長(貫三六八)金沢伍長(貫三六七)水田衛生兵(貫三六七)田中上等兵(貫三六七)当番の山本上等兵らの印象が強く残っております。
衛生材料は衛生部員が背負って来た薬品及び小さな梱包一個のみの非常に心許ないものでした。約三カ月間に約五百五十名を収容し、戦病死者は百八名であったように記憶に残っています。患者は主として極度の疲労、マヤリアの発熱、栄養失調の為に次ぎ次ぎに死亡し多い日には八名もあの丸木を敷いたニッパ(椰子の葉の屋根)の暗い小屋で亡くなられた事があります。当時を偲び遺族の方の事を思うと断腸の思いです。薬品はジャワ製のキニーネのみに近い状態で手の施しようもなく、半日行程下流の日産ビルツ農園から入手した椰子の実の汁をリンゲン氏液兼糖液の代用として皮下注射をし、重塩規の粉末を雨水に溶かしてバグノン注射液の代りに使用して脳性マラリアの意識不明の患者を助けた事が昨日の如く思い出されます。
下痢患者には木炭の粉を内服させ、蛋白源の補給にジャングルに野豚狩りに出かけ、又エビを釣って分ち与えたように覚えております。約三カ月後業務を終えました。陸路部隊の転進路を行進すれば途中で発熱すれば後続する部隊がないので置去りになる恐れがあり、占領当時日本軍の探検隊が上流から丸木舟で下ったが途中で行方不明になったキナブタンガン川の丸木舟での遡行を決行しました。約四十数日を要してケニンゴウに到着し、そこで兵站司令部の星島大尉から戦況を聞いて驚いた次第でした。我が三六七部隊はブルネイから悪戦苦闘のすえテノムに転進した時でした。
暫らくケニンゴウで衛生業務についておりましたが、昭和二十年八月十五日午後四時頃道で七辺主計中尉にお会いして終戦を知らされました。主計様がおい神足、戦争は負けで終りだ生きて帰れんぞ、楽に死ねる薬をくれやと言われ、小生自殺用にと思って持っていた虎の子のモヒ十本と主計様の拳銃とを交換した時の事が昨日の如く眼前に浮んで来ます。それから部隊に復帰して収容所に入ったような次第でした。甚だ記憶が曖昧となっておりますので間違いも多いと思いますがお許し下さい。