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4.草むす屍ふみ越えて

独歩三六七大隊作業隊長 奥平冬正

 昭和二十一年四月ボルネオより帰還して、生きて帰らない戦友や旧部下を思い、御遺族に対する不取敢の報告を終了し、新しく平和日本再建の門出に当り、懐かしい印象として忘れられないボルネオ在隊間及び前後の行動思い出の要点を記録していたので、戦後二十五年の今日若干の補正を加え思い出の一端とします。

 一、応召入隊より征途に

 昭和十九年七月大東亜戦争も愈々決戦段階に突入し我々もまた大命に基づき、七月二十八日姫路中部第四十六部隊に応召入隊し独立歩兵大隊要員として直ちに南方向けに出戦を準備し「今日よりは省りみなくて大君の醜の御楯と征で立つ吾は」と古の一防人の遺せる言葉の如く、我々はまた皇国の必勝を信じ懐かしの父母、妻子と別れ、集う精鋭堂々の偉容を以て三十日原隊を後に征途につく。
沿道至る処万歳声裡の声に送られ白鷺の精鋭莞爾として軍用列車の人となる。

 二、海上多難の報

 三十一日朝主力は下関に到着すると共に海上輸送の準備をする。
 敵潜水艦の出没極めて活発にして前途憂慮せらる一日下関より門司へ門司外港に於て大隊は橘丸、第二山水丸に二隻に分離乗船出航を待つ。我々作業隊は第三、第四中隊と共に第二山水丸に乗船、先着の岡山部隊の一部と共に約六〇〇名、両船いずれもタンカー船にて海上の動揺が思われ、又第二山水丸は甲板上に飛行機を積載し敵潜水艦の目標となる公算が大なるかと少々危倶の念を抱くも天佑神助に待つ。

 三、輸送船にて高雄ーアバリーマニラーかくして任地ボルネオへ

1、門司より高堆
 八月四日門司外港に於て集う船団二十七隻、海軍艦艇護衛の下に出航愈々海上輸送船上の人となる。
見渡す故国北九州は山紫水明、工場群は黒煙に包まれ実に頼母しく、此処に我々は再度戎衣をしめる。
船はいつしか五島列島に入り応召前に知りたる水産業と五島を偲ぶ。日出する太陽も我々の征途を祝するが如く我々も皇国の多幸を祈る。然し前途に多難がしのばれ奄美大島西方に於て昭南丸は遂に敵の魚雷にて一瞬にして轟沈、これより日夜敵潜水艦の出没甚だしく艦艇の苦労もー潮毎に大となり我々も又海上監視と万一に備え待避訓練をする。
台湾西方海上にて傷ついた空母を望見する。戦局の苛烈さをひしひしと感ずる。

2、高雄にて
 護衛艦より発する爆雷の音に幾度か立ち上りつつも我々は無事台湾高雄港に入港することが出来たが、支那方面より来る敵機の夜間機雷投下のため我々の入港も若干遅延したが入港と共に初めて台湾の土を踏み台湾産バナナ、甘味品などを満喫す。

3、高雄よりフィリピンヘ、北端アパリにて下船
 高雄に停船すること五日、多難なるバシー海峡を目前に船団は 編成替え約十一隻フィリピンに向い出港、船内は海峡多難なるも久し振りの高雄土産を唯一の楽しみとして毎日甘味品に舌鼓を打つ、絶えず我等の船団も巧みに敵潜の目を逃れフィリピン北端に到着することが出来た。
これから先特にマニラ湾附近は敵潜水艦の攻撃極めて活発にして我々は独力ルソン島北端アパリに於てそれぞれ橘丸、第二山水丸と別れ下船小庸することが出来た。
(該船団に関し後日聞きたる情報によれば約四隻敵潜の犠牲となった由、但し橘丸、第二山水丸はマニラへは無事入港したる由知る)

4、機帆船にてマニラヘ
 マニラ湾附近海上多難の故を以て一旦アパリに下船した我々は陸路行軍と列車にてマニラ入りを計画中総軍司令部との連絡がつき機帆船に分乗マニラに向う事となる。
我が大隊も各々八〇〜百五十屯程度の機帆船に分乗、我々作業隊は第八〇興安丸に乗船アパリを後にルソン島西方を接岸航行してマニラに無事到着することが出来た。
緒戦の思い出のバタン、コレヒドール要塞を眺め当時の激戦を偲ぶ。

5、マニラにて
 日本の軍政に独立国家として門出して間もなき首都マニラ、然しベールのみ大にして落着きなきマニラ、物価は思いの外高価にして歓楽を知るも働くことを知らないマニラ、また日本軍に好意を持たない市民一般、我々はサンサロー競馬場(当時軍用宿舎であった)における旬日に満たない外出に右のことを印象づけられた。真に現実主義の国フィリピンを印象づけられる。
高物価のため真に必要な品物の補給と食糧も軍関係の廉価店にて食する外唯見物の域を出なかったと思う。

6、マニラよりボルネオヘ
 マニラに於て南方総軍の命ある迄小憩するを得た。我々も愈々任地ボルネオに決定し新編成貫兵団要員としてマニラを後に再度機帆船上の人となる。我々作業隊は秀吉丸に乗船、途中ミンドロ島、パラワン島に寄港しっつボルネオ北端クダット港に入港す。
 この間パラワン島パートプリンセサ寄港前、佐用郡平福町出身前川五郎君病没す。同港にて仮埋葬を実施英霊に黙祷を捧ぐ。

7、サンダカンにて
 クダットに入港せる我々は同港にて若干の煙草を購入すると共に直ちに同船にて出航サンダカンに到着.貫兵団長野崎閣下は当時サンダカンにあり、貫作命に基き同地に仮上陸此処に全員ボルネオ第一歩の足跡を印す。
我々はサンダカンに於て疲労回復に努むる一方愈々任地タワオに向う出港準備をす。サンダカンはマニラに比し物価は安価なれど物資多からず、我々は若干の物資を購入する外各方面と連絡、食糧等は増配を得て配給官給品にて食欲は満喫す。

8、サンダカンより任地タワオヘ
 サンダカンに於ける上陸休止も束の間、時期遅延と共に愈々海上輸送も困難となる情報を察知せる我々は積極的に出航を準備し滞在四日目サンダカンを後に再度秀吉丸に乗船タワオに向う。
サンダカンに於て折田一三氏同乗せられ(今は亡き故人なるも予備海軍少佐にして退役後ボルネオ水産社長として南方水産業に活躍せられ当時在ボルネオ日本人有力者)ボルネオ方面の新情報を得て将来のため幸いであったと思う。
途中シムポルナ東方シャミル島に約七時間仮上陸し折田氏の御馳走に我が兵も喜ぶ。
 門司出発以来船内の給与は高雄迄は南瓜攻め、高雄よりは胡瓜攻めなど副食は単食給与に少々閉口したるも機帆船に分乗後は流し釣りに南方の魚にありつけて体力の低下を防ぎ一名の犠牲のみにて海上も無事に任地タワオに到着することが出来た。
作業隊は部隊先着隊として此処に多難なりし海上輸送を終え上陸せる喜びは筆にて表わすことは出来ず、輸送間幾度か敵潜水艦の犠牲となりし幾多の将兵を思う時感慨無量のものあり。

 四、タワオ附近の警備

 十月三日部隊の最先着として任地タワオに到着せる作業隊は少憩の間もなく糧秣船の荷揚作業を実施する外、部隊の設営に忙殺される(約四日前タワオに到着せる船、爆撃にて撃沈され特にその必要大となる)。間もなく岡田大隊長の着任、後続部隊のタワオ到着と共に陣地構築のための地形偵察もまた多忙を極め約十数日岡田大隊長と共に偵察構築計画を確定すると共に部隊の全能力を挙げて南方反撃のための陣地構築に邁進す。
当時敵の基地はすでにニューギニアよりモロタイ島に推進せられ、タワオーミンダナオを通ずる線を以て南方反撃のための第一線と指定せられ任務の重大なるを自覚すると共に各自またよく精励す。

 この間部隊は十一月十五日貫兵団の編成改変に伴い一部の編成改変を企図せられ作業隊は特業関係より約半数転属となり新たに工兵の転入を見て此処に独立歩兵第三六七大隊作業隊も貫兵団、三六七大隊と共に本編成を完結し愈々該編成を以て死生を供にすることになる。
 間もなく戦況は頓に悪化し敵はミンダナオ一夕ワオの線に来らず、レティ島に上陸、この方面の戦況を重視するも比島、台湾沖航空戦に若干の打撃を与えたるもタワオ方面の敵機の来襲逐次頻繁となり、フィリピン方面また多難がしのばれ兵団も敵のルソン島進攻に伴いその存在意義薄弱となり、敵のボルネオ西海岸地区上陸昭南攻略の企図濃化し此処に兵団は軍命により一ケ大隊のみタワオに残置し櫛山大隊は新たに編成を企図せる宇野兵団の隷下に入らしめ爾他の大隊は陸路西海岸に向い積極的に敵の侵攻方面を求めて転進することに決し転進の為の準備を着々と進行せしむ。

 五、北ボルネオ横断転進行動

 一月下旬以来転進準備中作業隊は第一兵站線進路啓開要員として柴原伍長以下七名大隊附森村中尉の指揮下に入らしめ兵団啓開要員と共に出発せしむると共に主力は積極的に各自の健康増進に努め前途多難を予想せられるので人員の選定もまた厳に実施し、虚弱者及び熱発者はタワオに残置し軍命に基づき二月二日タワオ出発第二兵站線をまずケニンゴウを目指し次いでブルネイに向けて出発、その行軍たるや体験者のみ真を知る苦労辛苦の連続でジャングルと湿地加うるに豪雨で河川氾濫し食糧不足と病魔と戦い気力を以て突破せりというも過言ならず、当時敵との遭遇戦が予想せられたるも部隊により半数以上その行軍の犠牲となり、戦わずして敗れたボルネオの表現に尽く我が三六七大隊もこの転進の為の行軍で岡田大隊長堀尾副官、第四中隊長ら犠牲となられブルネイ到着迄知り得なかった。ありし日を偲び惜しまれてならない。
 我々はかくして最強者にて約二カ月の日数を費やしブルネイに到着後続を待つ。

 六、ブルネイ附近の警備並に同地附近の戦闘並に転進

 長途の転進行動で一般に休力の衰弱甚だしく疲労回復の間もなく敵邀撃の為の陣地構築その他の戦闘準備に忙殺す。作業隊はブルネイ附近河川多きため漕舟訓練を準備、敵状依然として警戒の矢先、昭和二十年六月七日に至り有力な敵艦船ラブアン島(前田島)附近に現出、殷々たる砲撃音耳をつんざく、これより先愈々兵団に戦闘戦備の命下り陣地に着く。ラブアン島奥山大隊等の健闘を祈りつつ敵機の機銃掃射の間隙に戦闘準備の補強に努む。

 翌八日ムアラ桟橋に敵上陸開始の情報ありたるも当初は撃退その幸先を喜ぶも再度敵は友軍なき方向より上陸をなし此処にブルネイ附近石炭山を中心に我が大隊も敵と接触、我が作業隊は敵の背後上陸に備え前夜半を利用してブルネイ河に石油ドラム缶を錨で沈め点々と浮べ恰も機雷の如く配置して楠正成式戦術を採用す。
十一日敵上陸用舟艇を撃退するなど決死で守備す。敵機の絶対制空圏下の爆撃、機銃掃射あるいは艦砲射撃に加えて多数の迫撃砲弾、最早やラブアン島奥山大隊増援救出の術もなく兵団左拠点佐藤大隊(三六七大隊-筒井大隊右拠点)も犠牲大にして、兵団戦力も我が筒井大隊を頼みとするのみ、兵団長また玉砕を覚悟しつつ佐藤部隊の犠牲と敵情に基づき兵団は夜間を利用して六月十二日夜間ブルネイ河を渡河、作業隊はこの重任を荷い衆心一致決死隊となり、舟艇を準備この機動を陰に成功せしむ。

十三日昼間における我が大隊旧陣地は敵の砲爆撃極めて物凄く陣地機動なかりせば我が部隊も旧陣地に於て砲爆撃の餌食となっていたであろうことを思えば感慨深きものがあった。我々は新たな陣地により敵の侵攻を阻止すると共に邦人婦女子約一千名を集結退避に努める。然し邦人婦女子転進の前途には既に敵性化せる有力な武装せる土民軍あり、又敵の侵攻も予想せられ兵団長も又玉砕か或いは邦人婦女子を援護して転進か大いに悩まされる処もあったが、軍司令部方面の危険も予想せられ我々は早急なる玉砕を排し長期持久を策することに決し、我が大隊は兵団司令部と共に邦人婦女子を援護しつつ此処に未曽有のジャングル突破の転進を実施することになる。

 タワオよりブルネイに向う第一回転進は辛苦の連続であったが、この転進こそ本当の命掛けの転進で道なきジャングルを不完全な地図と磁石を頼りに戦闘の疲労と敵機の偵察、土民の動向を厳に警戒しつつ食糧不足と病魔と戦い連続約五十日急峻な山岳をよじ登り見下す絶壁に黙々と挑戦して河を降り雨に濡れ、私自身靴傷と股ズレの痛みに加えて襲って来るマラリアによる熱発と痔疾による痛み、それに食い伸ばしていた主湯(米の汁)も遂になくなり、完全に飢餓状態で水を飲み新芽を食いお蔭で顔は憧れ上りフラフラの状態となる。
「何千万円やろうと言っても我々は金では歩けない」と誰しも転進後語り合った如く誠に命掛けの行軍で、私自身後二、三日飢餓状態が続けば倒れていた事と思う。

 七、終戦前後

 ブルネイよりの転進に疲労困憊の極に達せる兵団はケマボンに於て軍団と連絡することが出来、ケマボンに於て体力回復に努めつつ後続の到着を待つも皆疲労甚だしく後続は少い。
 兵団は臨時編成改変を企図せられ大隊も1、2、3、4、銃砲隊、作業隊の六ケ単位を排し一般中隊三ケ中隊に改変せられ、筒井大隊は副官は萩野大尉、第一中隊は依然として広瀬大尉、第二中隊高木中尉、第三中隊奥平中尉それぞれ指揮することになり、私自身兵団司令部大隊本部と共にテノムに於て防衛勤務をなすこととなる。
(第一中隊アンダプアン、第二中隊ケマボン、第三中隊テノム)
もっぱらテノム到着後は健康回復に重点を指向するも長期の戦闘並に転進の為の疲労で病魔に倒れるもの多くなり、健康も若干回復すると共に再度第一線増強の為の準備命令下るも間もなく終戦の報全員に伝わり前途多難が予想せられる。
我々は終戦が信ぜられず武装解除を受けて連合軍の命に服従するか、あくまで抗戦を継続するか或は潔く自決するか誰しも迷う処であったが、我々は大局に基づき小異を捨てて大同につき大命の儘に如何なる苦難も突破行動することに決す。

 省りみれば幾山河の苦労に耐えつつ辛うじてではあるが突破せる我々、又御国のため莞爾として逝きたる戦死者、或は途中病魔に倒れた戦病没者等敗戦の名の下にその労の報われざるを思えば実に暗澹たるものあり。
 然し実力を以て敗れた祖国日本、唯時流の趣くところ平和日本再建に新しく生れ変りたる気持にて出発せんとす。
 地下の英霊又祖国日本の再建と夫々の家庭の恙なき加護を祈る。

 八、復員業務

 八月二十日頃(それまでは敵のビラにて察知)終戦を正式に承知せる我々は暗澹たる中にひたすら健康第一に留意、爾後連合軍の命により八月十四日下賜の詔書を奉じ兵器の引渡準備等をなしつつ十月一日概ねテノム附近に部隊は集結、我々は当時テノムにあり十月三日ボーホート収容所に入り、次で間もなくパパールを経てゼッセルトンに集績、残務整理を実施しっつ二十一年四月十二日ゼッセルトンに於て部隊主力はボルネオ最後の引湯船元空母葛城に乗船、四月二十四日途中サイゴンに寄港しつつ広島県大竹に入港、二十五日同地上陸、二十六日復員完結後夫々人員解散帰還す。
この間臨時編成の三ケ中隊は編成を解かれ各々昭和十九年十一月十五日本編成時の編成に帰る。此処に再度作業隊の人員を掌握しつつ本土帰還を準備す。終戦後収容所に入ってより連合軍の命により日本作業隊として長期にわたりパパン島に派過せる人員があったが、在パパン島派遣者は極めて元気旺盛にてその派遣者の大部分は殆んど北ボルネオ横断転進行動に又ブルネイ附近の戦闘より転進に辛苦を共にせる精鋭にしてその苦労も報いられ全員故国の土を踏みたるは何よりも幸いならん。
 それぞれ家庭に於ける生長と発展を祈る。

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