3.断腸の思い
独歩三六七大隊本部付 坂越秀夫
私達の召集された昭和十九年七月頃は、ガダルカナル島が陥落して以来、南方の各島嶼が引続き敵軍の有勢な機動部隊に陥され、我日本陸海軍占領部隊はあたかも潮の引くように撤退を余儀なくされ、フィリピン南部レティ島にまで米軍が上陸して来て、敗戦の色は六分通り濃くなっていた。
私は応召した時、姫路歩兵第三十九聯隊(当時第四十六部隊)に面会に来た妻の膝に眠っていた生後百日目の長男の他愛ない顔を見て、二度とこの子供の顔を見ることがないだろうと思っていた。
二十七隻で門司を発進した私達の輸送船団はまず鹿児島の黒島沖で佐藤部隊の一部の乗船する昭南丸が敵潜水艦の魚雷攻撃をうけて一瞬のうちに海底深く沈められ、南下するに従って夜となく昼となく敵の潜水艦に追いまくられて誰もがいつなんどきでも海に飛び込む準備をしていた。
台湾とフィリピンを隔てるバシー海峡にかかる頃は愈々危険の極に達した。そこでバシー海峡を渡るなりフィリピン北端の漁港アパリで元気な乗員は全員下船して、マニラまで行軍ということになってはいたが、幸いにも内地から徴用されて空のまま南下して来た機帆船数隻に乗船することが許された。
我々の下船した最初の船団はマニラに入港した時は僅かに五、六隻を残すのみと後で聞いて慄然とした次第であった。
目的地に向う途中がこのような状態で、全く幸先の悪い征途であった。ボルネオのタワオに上陸するまで、大海原に木の葉にも誓へられる僅か百屯余りの機帆船にギッシリ詰め込まれて、昼間は敵機に銃爆撃されることを恐れて殆んど夜間だけ数時間ずつの航行であった。
時には暴風雨に遭遇して行方不明になった兵隊もいた。現在なら定期船で二昼夜の航海距離マニラ一夕ワオ間(約八百浬)を概ね一カ月近くかかって目的地タワオにやっと着いた。
タワオでの連日炎天下の陣地構築に五カ月もの貴重な労力を無駄にして軍命令とはいえ無謀な転進命令で、例の「死の行軍」を強いられ、タワオからブルネイ迄百四、五十里の道程を(人跡未踏のジャングルあり、泥んこの膝まで没する湿地帯あり、嶮しくそそり立つ断崖あり)樹木を切り払いながら歩くというよりはヨロヨロと気の抜けた夢遊病者のように、来る日も来る日もマラリアの熱と悪水による下痢や嘔吐に苦しみながら、各部隊入り乱れて散々伍々全く日本軍隊の行軍と言える姿ではなかった。
このような疲労困憊に加えて、あるかなしやの乏しい食糧と不衛生に起因する皮膚病なども将兵の生命を縮める結果となった。
タワオからブルネイ迄約三カ月もかかって毎日毎日焦げつくような炎天下を歩くというよりは、ヨロめき続けたが、ブルネイに近づくに従って道端にゴロゴロと戦友が数知れず倒れたまま息を引取って行った。時には苦しさに堪えかねて我と我身を断ってゆく兵隊もいたし、あるいはマラリアの高熱のため気が狂って隊伍を脱落して行った者もあった。あの当時の状況では、吾身一つをもて余していて戦友にさえ手を貸す体力も気力も沮喪し尽していたことは誰もが認める事実であった。
かくして目的地ブルネイ地区に全貫傘下の部隊等数万の兵力が展開して敵を迎え撃つ態勢に入りながら、戦闘力も武器らしい武器も持たぬ我貫兵団は、連日連夜続けられた敵機の容赦ない猛爆と山の形も変る程の艦砲射撃に敵の上陸を許さぎるを得なかった。
そして、またまたブルネイ地区を捨ててテノム迄の百数十里の大迂回作戦ー事実上は撤退行軍を再度起す結果となり、第一回目より遥かに大きな犠牲を出す結果となった。本当に不運な我部隊であったが、しかしブルネイ地域に玉砕した佐藤部隊(独立歩兵三六六大隊)或いは前田島に遂に玉砕した奥山部隊(独歩三七一大隊)など、実に痛ましい限りであった。にも拘わらず九百何十名のうちから私たち三百名が無事に生還できたのは全く奇跡的なものであって、紙一重の幸福を掴み得たと私は信じている。
このたび二十五年の長い歳月を経たとはいえ、我々生還者が相寄り亡き戦友の霊を慰めることが出来て、これ以上の喜びはないと思っている。
然し反面、今後永久に誰にも骨を拾って貰えることのないであろうボルネオの奥地に散華した亡き戦友のことを思うときさらに断腸の思いがする。