「あゝボルネオ」目次へ

2.追憶

独歩三六七大隊第二中隊小隊長 山本恒雄

  出征を告ぐる墓参や蝉しぐれ

二度目の御召しを受けて、先祖の墓前に報告、苔むした墓石に滲み入るように蝉はミーンミーンと鳴き続けていた。
昭和十九年七月二十八日姫路歩兵第百十一聯隊補充隊に応召、入隊の面々を見ると予備役のシャキシャキばかり、内地勤務かも知れないなどとの予想は一ペんにふっ飛んでしまった。三十日姫路出発、八月四日門司出港南下「軍は本船団の半分が目的地に到着することを以て成功と思う」との事であった。
 戦局は全く急を告げていたのである。出港して二、三日目にして早くも友船は敵の魚雷を受けて轟沈された。ポッボーと吹き鳴らされたあの汽笛の音! 今だに私の耳から離れない。

  甲板に椰子わりて飲む盆の月
  一瓶のくすりに頼り夏の航

 船は一路南下して高雄へ、高雄からあのバシー海峡を渡り、比島アパリに到着した。
此処で一同下船し、アパリからマニラヘ、マニラからタワオヘ、百石舟の機帆船行軍が開始された。南国の空の月は皎々とさえわたり、望郷の想をかりたてた。タワオに上陸したのは十月六日

  朝まだき榔子林に彳ち母想ふ
  軍歌やんで蛍火の濃く流れそむ
  椰子林に病む兵の皆妻子あり
  兵病める部屋に蛍火流れ消ゆ
  亡き戦友(とも)の側に病む兵蝿追はず
  枕辺に戦友の供へし椰子一つ
  榔子林に桑田兵長鎮まれり

タワオでは三菱系だったと思うが農園があってその施設が私達の宿舎にあてられた。壕掘りに専念した。軍歌演習もやった。お正月にはタピオカを搗いて内地の餅を偲んだ。現地人の老夫婦がいて沢山の山羊を飼育していた。この老夫婦がタピオカをむし物にして、我々兵隊にコッソリと毎日のように差入れしてくれた。兵糧に事欠いていた我々には何よりの楽しみであった。マラリアに倒れる者も次第にその数を増して行く。桑田兵長は最初の犠牲者であった。火葬の焔があかあかと椰子林を焦がしたのを思い出す。正月を過ぎると敵機の襲撃を見るようになった。壕は掘られていたが、それに据えるべき兵器は何一つなかった。そうこうするうちにブルネイへの転進命令が出た。

 私は第三小隊長として中隊に先発し、小隊の諸君と共に一月末「ブルネイ方面への兵力転用のための作戦道修理」の任についた。
 小屋の屋根に用いるアタップ(梯子の葉で作ったもの)を背負って皆と一緒に運んだ。その間マニラ麻で草鞋作りもした。

  炎天下皇軍の列蝶わたる
  ジャングルの中を軍靴のゆくぼかり
  山蛭を葉尖に見つめ兵を待つ
  蜩(ひぐらし)の鳴いてジャングル暮れにけり
  檳榔樹くろぐと彳ち十字星
  驟雨来て草鞋作りの兵ぬれぬ
  験雨して兵ふんどしをしぼりけり
  月光に仮寝の兵や貿伸びて

 ジャングル内のスコールは凄い。今までの道は忽ちのうちに河となり、我々の命さえ奪いかねない。モステンの手前に流れていたカロンバン河がスコールで増水し、あの大きな吊橋が流木でぶった切られた。平岡兵長はこのとき遭難、私共は林軍曹の知らせで在留邦人、現地人の協力を得てこの橋の修理にあたった。あのとき河岸に咲き乱れていたネムの木の花、これに群がる蝶、兵長を呑んだ濁流も、うそのように水嵩がへり河の中に州が出来ていた。

  夏蝶の濁流わたる真昼かな

 モステンをすぎて途は益々けわしさを増し、ある時は濁流にかけられた丸木橋を渡り、ある時は激流をロープでお互いの身体をつないで渡ったり、犠牲は増すばかり。サンダカン方面から来た他隊の兵が馬を連れていた。然し馬もジャングルには叶わない。皆へい死して行く。私共はこの馬を頂戴した。馬肉を腹一杯喰った。すると今までの黄色い尿がとたんに澄んで臭っ白い小便に変った。然もあの放尿の心持ちのよかったこと、一生忘れられない。
 馬を喰え馬を喰え馬肉を燥製にして飯盒につめた。二、三日馬肉のにおいが鼻について離れなかった。お鏡餅のよう象君の糞が見られたのもこの頃であったか。

  英霊の墓標おろがみ青嵐

 ジャングルの径ばたに生木を削って○○君の墓と記されている。

  甘藷の葉の青き浸しや山の小屋
  ジャングルに病む兵食糧なしと謂ふ
  先着の裸の兵の雑魚を釣る

 何んでも喰えるものは喰う。こんな処に魚がと思われるような密林の水溜りに釣糸を垂れると魚にありつくこともあった。
 三月二十日頃ラナウに着いた。大休止で二、三日休んだ。タワオ以来宿舎らしい宿舎のなかった私共に板の間に寝られたことはほんとうに嬉しかった。
 北ボルネオの高峯キナバル山の麓である。宿舎に立てられた日の丸の旗が、南国特有の澄み切った青空にはためいていた。

  灼け雲や兵泊つ小屋の日章旗
  大休止午睡の窓に雲灼くる
  啄木鳥やキナバル山は雲の上

 太い古木に啄木鳥が群れ、木をつつく音はコツコツとはげしい。ラナウからブルネイへの道はよくなった。土人の女がバナナを売りに道端に立っていた。ドブ酒も飲めた。

  バナナ売る女(ひと)の乳房の陽(ひ)にあらわ

 人里もあり夜など鐘を喝して飲み明かす土人の歌声の聞えることもあった。然し落伍は続出、途中大隊長岡田少佐殿が逝去されたのもこの頃ではなかったか。

  水垂るゝ榔子の実すすり給ひしが

 タワオで壕を掘っていると単身視察に来られ、我々がサイダーと称して(朝早く榔子の実を落して草叢にかくまって置くと年後になっても冷たい)椰子の実をさし上げると、キサクにお飲みになったことを思い出される。

  ともどもに椰子飲みわけし戦友の逝く
  熱発を重ねつ敢へて熱地征きしが

 四月二十五日ブルネイ到着、しばらくして天長節を迎えた。このときの兵力は中隊で二十名を割っていたように思う。

  敵機去り陣地は蛍のとぶばかり
  露深き羊歯の中なる蘭の花
  陣地とぶ蛍に想ひ遥かなり
  ゴム林に戦友も木の葉も夕焼けて
  炎天下ひろげし地図に汗垂るゝ

 敵機は定期便のように毎日やって来た。機銑掃射、爆撃とその激しさは日増しにつのる。私は中隊長や先任小隊長の方々が病気のためブルネイ入りが遅れたので、命令により明石閣下、松本参謀、佐藤大隊長、筒井大隊長にお供してブルネイ地区の陣地偵察に毎日出た。横尾兵長、長手上等兵、衣本兵長らの諸君がマラリアを押してよく随行してくれたことを思い出す。

  幾たびか敵機を羊歯にさけて行く

 六月八日陣地偵察の作業を要図にして、大隊本部を訪れた。途中空襲に遭いバナナの株にしがみついて、もうこれまでと思った。筒井大隊長にお会いすると戦闘下令とのことで大隊は石炭山を中心に配備につくこととなった。中隊に帰ると内海軍曹が愈々戦闘ですと教えてくれた。夜に入り私共第三小隊はブルネイ河畔に出て敵の上陸に備えることとなった。このとき病気の戦友は陣地に残った。私はこれが最後と三田軍曹、横尾兵長、長手上等兵らの諸君と荒れ果てた建物のかげて飯盒炊さんをして虎の子の「銀めし」を腹一杯喰った。

 敵の艦砲射撃は益々激烈を極めた。そうこうするうちに中隊本部より撤退との事、本部に帰ると中隊長より飯盒の蓋でブランデー(?)を頂いた。そうして撤退は開始された。山に残った病身の藤原曹長以下数名への連絡はと聞くと未だしとの事、小隊の諸君と共に山に向ってオーイオーイと呼び続けた。然し連絡は遂に出来なかった。夜陰を利用してのブルネイ渡河は時間が遅れて夜明けになった。

 サエ山の戦闘
  血恨のつゞ希る径や炎天下
  砲弾のゴムの葉とばす間を進む
  迫撃砲ゴムの梢をうばいけり

 このとき大隊の虎の子機関銃が火をふいた。然し敵のお返しは凄く、友軍の犠牲となって帰って来た。阿部兵長の負傷もこのときであった。炎天下の径に血恨がどす黒く筋を引いていた。退却は急を告げ、山田少尉、大西軍曹ら数多くの諸士が帰らぬ人となった。

  小休止緑蔭に皆籾を搗く

 不思議にも敵は急追して来なかった。婦女子、老若男女を合せてのブルネイ在留邦人の引揚げ行軍であった。サエ山の戦闘以来十二、三日を経て小休止があった。命令によるとこれから十日位は人里はない。即ち食糧の徴発は不可能であるから少くとも十日分の食糧を確保せよとの事で皆無心に籾を搗いた。五升以上の米を持つこととなった。疲れ果てた身体に五升の米は持ち重みがする。

 タワオからブルネイへの行軍には心のゆとりがあった。ラナウからブルネイへの道にはちょっとした色気もあった。然し退却行軍は正に死闘である。道なき道を拓きつつの行軍である。ある時は担架をかつぐこともある。一つ足を踏みはずすと崖下に落っこちる。

  ジャングルの吐きて垂れたる大湊布
  常夏の高山(やま)に泊つ夜や火を欲(ほ)りぬ

 渓流に戦友の屍がさらされている。三田軍曹、山口軍曹、安原兵長、内海軍曹と中隊の中堅処が相ついで不帰の士となった。長手兵長の落伍、かえすがえすも残念であった。十日の予定が二十日を超えても人里に出られなかったように思う。食糧は底をついた。
 現在生還の馬部軍曹は中隊の先任下士官として中隊長をたすけ、内田軍曹、林軍曹は山田少尉亡き後隊の中堅幹部として、原兵長は中隊指揮班の中心となって兵糧の調達兵員の士気鼓舞に鬼神の努力をなされた。又不幸交通事故でなくなられた横尾兵長は私の小隊であったが、その円満なる人格はよく兵員の信望を集め、西岡佐市君らと共に兵糧の調達に奔走されたものだった。遠藤次良吉君の如きも山田少尉亡きあと、身体の弱い原田少尉付となり、正に自分一人でもその身休をもて余す、この頃の生活環境にあって尽力された努力の様相は全く筆舌の及ぶ所ではない。

 敵機が我々の行動を察知したのか空襲を一回受けた。幸いにも被害はなかった。あのときもう少し執ように来ようものなら、おそらく全滅の危機にさらされたことであろう。
 敵の飛行機より撒いた宣伝ビラが見られるようになったのもこの頃からだった。ドイツ、イタリアと我同盟国が無条件降伏した旨が記されていたように思う。二匹の亀を見つけて喰ったのもこの頃であったと思う。

  サボンの花一輪の香に邑近し
  すたれたる邑跡に咲くハイピカス

 疲れ果てた鼻先に柑橘類のかんばしい花の香がした。人里が近いらしい。六月十四日サエ山の戦闘以来一カ月と十日ぶりに私共はケマボンに着いた。この日七月二十六日。

  ながらえて陸稲(おかぼ)つむ日や雲灼くる

 陸稲をつんで命をつなぐこととなった。宿舎は竹薮の中にあった。ケマボン駐留中、私はテノムの大隊本部に連絡に出かけることがあった。途中平原があった。此処を横断するとき敵機に見つかるものなら大変である。朝の間に通るように出かけた。ある日のこと平原を無事通り抜けて軍司令部の参謀を訪ねた。すると「曹長、帰るときパールの平原はもう敵機の心配はいらないよ」とのこと。次いでテノムの大隊本部に筒井大隊長を訪ねると「曹長、戦争は勝つと思うか、負けると思うか」とのこと、返事のしようがなかった。帰路途中土人の部落があり、カチャンクイ(落花生のあめとじ)を売っていた。これを喰うのが出張の楽しみの一つでもあった。同行の戦友の一人が「今神戸から来ている関西配電の軍属に会いました。昨日天皇陛下の放送があって、敵は無条件降伏したそうです」との事で内地帰還も近いらしいですと知らされた。そうあってほしいと思った。それから暫らくして敗戦を知らされ、銃はとりあげられた。

  銃おいてせきと声なし宮守なく
  土匪襲来真闇に光る夜光茸
  夜光茸野犬群れ吠ゆ真闇かな

 役に立たない鉄砲でもないとなると淋しい。夜中土匪の撃つ自動小銃が遠くで無気味に聞える。竹やぶの中には夜光茸が光っている。野犬が狼の遠吠えのように夜になると吠え続ける。無条件降伏、心の不安は禁じ得なかった。
 私共は遂に九月二十九日ボーホートの俘虜収容所に収容され、パパール、アピーと転々して昭和二十一年四月二十四日大竹港に帰還した。収容所内の生活、色々つきせぬものがあるがここに割愛する。

 私共は永らえて今日二十五年目にして遺族の方々に亡き戦友の労苦を不十分ではあるが御報告することが出来た。戦友諸君、諸君亡き後遺族の方々の労苦は並大抵のものではなかった。
 戦後日本は占領下の日本から、講和後の日本として苦難の途を歩んだ。その途は貴兄等が行軍で味った苦労に較べるとその比ではないかも知れないが、ある意味では優るとも劣らぬ苦難であった。
 然し日本は今世界の日本になった。国民の総生産は世界第二位までになった。それは貴兄等なきあと父母・妻子が成し遂げた努力の賜である、ほめてあげてほしい。
 アメリカの未来学者、ハーマン・カーン氏は「二十一世紀は日本の世紀だ」と予言している。兄等の残された子供さんも二十五才を超えている。その年令は正に私共があの輸送船に乗り込んだ年格好なのだ。
 日本の歴史の中で二十五年という長い年月の間戦争が行われなかったのはかつてあったろうか。戦争を放棄し、平和に徹しようと努めた新しい日本の姿である。然し一面平和という言葉は昭和元禄という言葉に変り、保守・革新・東と西・南と北と人々の心の間に断絶がある。二十五年前我々が体験し、兄等が身を以て実践された犠牲的精神、国の将来にかけた情熱が今の新しい日本に欠けているよぅに思うのは我々大正人間のヒガミなのだろうか。
 私は貴兄等と共に眺めたあの南十字星の輝きを忘れることなく、誤りなきを期したいと思う。謹んで御冥福をお祈りする。願わくば魂魄、我民族の限りなき発展を見守ってほしい。

 附 記
 私は今回の従軍中原田少尉とお知り合いとなり、俳句の手引きを受けた。苦難の行軍中に俳句を作ることの喜びを見つけることが出来た。今日生還することが出来たのほ勿論戦友各位の一方ならぬ御世話の賜であるが、句作りの喜びが与って力のあったことは否むことは出来ない。ここに記した拙句も同氏の御指導によるものであることを記し感謝の意を表したい。

「あゝボルネオ」目次へ