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1.死の行軍

独歩三六七大隊第三中隊 西川勝次

 私は昭和十九年八月南方派遣軍の一員として、姫路より出征致しましてより悲しい敗戦となり抑留生活を終り懐しい祖国の土を踏みしめる。又故郷に帰る迄の真実の戦争の実態を記録して幾多の戦争の為に散って戦病死者の冥福をお祈り致しますと共に、私が亡き後で私達の子孫達が当時の戦争の姿を思い出し、戦争とは如何に悲惨なる事件であるかを思い出してくれるだろう。

太平洋戦争も酷なる昭和十九年内、南洋の拠点サイパン島の失陥後、私達の混成大隊は青葉に薫る白鷺城下を万歳の旗の波に送られ、恋しき肉親に別れを告げ一路広島港へ、輸送船に乗り込んで私達は何処の戦場へ行くのか分らない。
大陸か又は南方戦場か、乗り込んだ船は油送船で私達を輸送して帰りに南方の油を積んで帰るらしいとの噂をあちこちの兵隊達が話している。氷をどんどんと船に積んでいる。私達の大隊の大隊長はじめ中隊長、小隊長はホントに痛々しい位に年寄組が多いのも召集兵ばかりのせいだろう。

愈々出港の日も近づいた。支那事変当時と違い船の道中は危険千万の由にて船が魚雷に又爆弾にやられて漂流した場合に、小隊長は赤旗を持って漂流者を集合させる漂流訓練を終えて、私達はタチバナ丸という七千重量屯の巨船に乗船、愈々懐しい関門の港を出航、これが故国の最後と緑の山々を無言のうちに何時迄も見守りつつ朝鮮海峡へ。

堂々二十七隻の大船団、三列縦隊の編成にて海を圧して進んで行く。
私達の乗船タチバナ丸ほ幸か不幸か司令官旗はためく船団の基準船である。
夜のとばりも静かに落ちて九州の山々が黒い化物のように何時迄も続いている。夜光虫の光りが船と共に進んで見事な眺めだ。
やれやれ何だか今迄の緊張と興奮からぬけ出たような気持である。静かな航海を祈りつつ救命胴着をしっかり寄せてウツラウツラと眠られない、もう朝ではないかと時計を見ると五時だ。
物悲しげな汽笛の響きがボーボー、スワ危険信号だ。陸兵は皆救命胴着をしっかり結び直した瞬間、ピカッと稲妻のような光りと共にズドンズドン腹にこたえる音響、アッと息を呑んだが大丈夫だ。見れば私達の船の横を進んでいた巨船は一塊の火の玉となって燃えている。 五分もたった頃次第に炎は消えると同時に船の姿はなかった。
これが轟沈というのかと目前に見た情景は何だか夢のような気持。昨日元気で乗船した人々は一瞬にして亡くなったのか、たった一日の出征だった。

夜もすっかり明け放れ南九州の山々がかすかに望見出来る。何事もなかったように船団は南へ南へ、時々海防艦が子供を見守る親のように船団を護りつつ現在地の信号か海兵遵の手旗信号が娠やかに交換されている。陸兵の私達はチンプンカンプン分らない。
ただ汽笛の吹鳴によって対敵危険信号を知るのみ。心細いような心強いような妙な気持で見るのみ。

又いやな夜が来る。夜明け前が一番危険な時と誰もが直感した。連続して汽笛の響き、爆雷の投下音にビッ クリ驚きヒヤリと毎日を過ごすうちに神経も大分図太く馴れてきた。
台湾に明日着くという昼食の飯上げ最中、三列縦隊在後方の一船が又もやズドンの音響と共に天に冲する黒煙と共に火柱となって燃えて行く、右往左往する兵隊の姿がよく見える。
カタズを呑むしばし船は機関部を下に垂直の形で次第に沈んで行く。噫々ヘサキが天を指して静かに船は海中に没してしまった。しばしの後友軍機が沈没船を守っかのように花束を亡き戦友の頭上に投下して行く。
誰の瞼も熱涙にむせび見守っている悲しみも忘れ船は相変らず南を指して進んで行く、これが戦争という現実だろう。

翌日台湾の基隆港に寄港し南方の宝の島、緑も鮮やかな台湾の西岸に沿って南へ南へ遠く近く島の山々が見える。日本一の高山新高山も望見出来る。長い船旅にもソロソロあいてきた、早く上陸したい気持。
内地を出て何日になるだろうか。南台湾の要港高雄港外に安着した。
空はどんよりと何だか険しい雲行きだ、風も次第に強くなったきた。午後三時頃より強風が次第に増し船も木の葉のように揺れだした。今さらながら自然の猛威の前に人間の無力さを痛感した。恐ろしい風雨だ、何かにつかまっていないと海に投げ飛ばされる。背嚢も銃も鉄甲も兵器のことなど忘れ兵隊は必死の面影で甲板上にひしめいている。あちらへこちらへ誰の武器か分らないが波に洗われみじめな光景だ。

飯を食う元気者は一人もいない。夜のとばりが降りてから風はますます強く、風速は三五米との由にて立っている者は皆無、静かに死人のようにグッタリ、テスリをしっかり握りしめ目を閉じれば、身休は空中に舞い上がり又地上に落ちて行くような気持、死んだようにグッタリと横たわっているのみ。
空襲警報のサイレンが鳴り響き機銃の音が断続的に島の方で聞える。もうどうにでもなれという気持で一年の期日が過ぎ去ったような悪夢のような一夜は過ぎた。風も次第に弱まり、病人のような陸兵の姿でも腹が空いては何んとやら、飯を食べる人もあちこちに出てきた。聞けば昨夜来襲の敵機は支那大陸の基地より飛来し、高雄港口に機雷を投下したとの由にて海軍が掃海に大活躍をしている。船酔も大分よくなり、機雷の処分も無事済んで高雄港へ入港らしい。

 高雄港口は幅百米位で通過すると立派な港が開ける。ホントに袋のネズミのような格好の良港です。港口も無事通過、緑に映える椰子の木、赤い家や灰色の家を左右に船は港内にイカリを降ろした。
多数の輸送船は港内ギッシリ鈴なりの陸兵を満載している。軍用犬、飛行機も積んでいる。高雄港内一週間船上での滞在はホントに愉快だった。バナナに氷砂糖、パイナップル、甘味品の数々を満喫し英気を養い愈々出港する。

フィリピンへ南方航路への魔のバシー海峡も私達の高速輸送船団は無事通過、フィリピンルソン島の北端アパリ市に寄港し久し振りにて上陸した時の嬉しさ、河童が水を得た如くまだふらふらして足に力がない。
でも上陸出来た嬉しさに陸兵は久し振りにて支那戦場で経験済みの飯盒炊事に腕を振るい肉入り味噌汁で満腹、足を伸ばして大いに語り合う。
夜空は美しい満天の星、内地にいた時は坊さん、警官、先生、百姓、会社員等の地方人がこうして軍服を身に着けると皆立派な兵隊だ。
北斗七星が北方の空はるかに見える。地理に対する勉強を深く思い出す。
未知の地フィリピンのアパリ市教会の鐘の音がカランコロンと静かに流れて来る。
神に祈る現地の人々、服装も色とりどりの美しい姿、椰子の並木道など初めて南方の叙情詩を満喫した。
故国を遠く離れて二旬位なのに一年も過ぎたような気持になるのはなぜだろうか。死の恐怖の連続だったせいだろうか。

三日の後又乗船、チッポケな七〇屯位の船に分散乗船して出発。焼玉エンジンでボンボンと南下、比島の山々が望見出来るが甲板上には出られない。バタアン半島にさしかかった。
米軍上陸地のサンフエルナンドも過ぎ右の方に帯のような島が見えてきた、名高いコレヒドール島だ。
船はマニラ湾に入って行く、内地の大阪湾か、紀淡海峡より大阪湾に入るコースが丁度マニラ湾によく似ているようだ。紀伊半島がバタアン半島、コレヒドール島が淡路島、マニラの街が大阪市と地図を開いて話し合った。
愈々流行歌マニラの街角で名高いマテフの高層建築が見えてきた。

 比島の都マニラはアメリカの香りする近代都市、神戸、大阪にも劣らない立派な街だ。行き交う男女の姿もアメリカ風のスタイルで颯爽と闊歩して行く。教会の屋上に輝く十字架が常夏の光りに映えてキラキラと輝き、地上を行進する私達黄色い兵隊とのコントラストになぜか心打つものが感じられる。
私達兵隊の行進をマニラ市民は、ホントに無頓着にて警戒の目を向けてるようだ。立ち止る人もなく支那戦場とを思い比べ国民性の相違をしみじみ感じた。
マニラ競馬場に安着、馬券の山がアチコチに散乱し、ありし日の競馬ファンの熱狂振りが偲ばれる。点滅する七色のネオンが、夜空に映えて美しい。こんな所にいたいと思うのは私だけではなかろう。

四日の後幸か不幸か命令により愈々任地らしいボルネオに向って出発の日が来た。相変らずの帆船、広島で石を積んでいたという広島ナマリの船長で六〇屯位の船に乗船、島又島を見送りつつ何日目かにボルネオの山が見えてきた。
聞けば富士山の二倍の高さはあるというキナバル山がはるかに望見出来る(上陸後このキナバル山の中腹を行進、死の行進とも知らず)ボルネオの北端の港クダットに寄港後、任地一歩前東海岸のサンダカン(北ボルネオ首都)に寄港後任地タワオに着いたのは十月十三日、八月初旬より実に六十日の長い恐怖に満ちた航海だった。
任地上陸に皆元気一杯だ。夜には物凄く大きいソラ豆位もあるホタルの群れが美しい花火のように舞いながら榔子の並木を流れて行く。一年後には敵上陸とは誰が思っていただろうか。

 土民の家にそれぞれ分宿、平凡なる毎日を過して思い出の昭和二十年の正月を迎えた。
半裸体の姿にて初日の出を迎える気持、椰子の葉蔭より真っ赤な太陽が静かに昇る。人類の悲劇を知るや知らずや戦局の変化も知らず月日は流れ一月下旬私達の部隊は運命の別れ途駐屯せるタワオ(ボルネオ東海岸)より西海岸の任地ケニンゴウを通りミリー、クチンへ行くらしい。
実にボルネオ大陸横断に出発して行く。赤道直下多くの病いの戦友に別れを惜しんで、ジャングル又ジャングルを切り開いて、死への行進の第一歩を踏みしめたのです。

行程何百里か朝に二人、夕に五人と死んで行く戦友よ、戦闘は一度もせず、ただ暑さと食糧の欠乏、マラリヤ病のため戦友の数は減っていく。
誰を恨むでもなく、すべてを自分の精神力と体力とに頼り毎日歩き続ける。三人、五人とグループを作って行進は続いた。昼なお暗きジャングルをただ夢遊病者のような群れが何の目的もなき如き兵隊のウツロな瞳、追いつ追われつ統制のない人間の群れが未開の土地を進んで行く、一時間でも早く一日でも早く中隊の進む道を追って行きたい心で一杯だ。
野犬は何匹殺して喰ったことか、名も知らないせ草木を喰ったことか。憐れなる英軍の捕虜達が骨と皮との姿で私達との行進とスレ違った時、戦争は勝ってるのか負けてるのか我が身と比べて悲しく感じられた。
生きたい、生きなければならない、頑張らなければ今死んだ戦友のように誰一人に水の一杯ももらわず死んでいくのだ。

張り切って生きぬくのだと出発してより九十二日目、天長節の旗日四月二十九日、ボルネオ唯一の鉄道線の末端駅メララップに着いた。
けれど中隊は早くも過ぎ去って影もなく、中隊を追う戦友四名と共に意義ある昭和二十年四月二十九日天長節を迎えた。戦友の一人岩本兵長はマラリアと過労のためウワゴトにおっ母あおっ母あとつぶやきながら冷たく死んでいった。(美嚢郡志染村広野新関二二六、出征時休重十八貫だった)でも戦友に見守られながら美しい死顔だった。ジャングル内の死の事を思い感無量であった。

 メララップ部隊の給与にあずかり久し振りにて元気な人間らしい気持になったが、気の緩みか発熱のため休んでしまった。東京音頭のメロディーが聞えて来て、はるかに故国を侭びつつ幸いにも熟も下り一日でも早くと出発する。
今度は汽車に乗りポーホートへ着き大隊の任地ブルネイへの渡船を待ち四日の後愈々乗船して任地に向う日は来た。これが人間生死の境になるとは露知らず、戦友の大多数は居残り(後に全員玉砕)私等二十数名は乗船後夜の闇にまぎれてブルネイ湾を横断して中隊の先着者が待つブルネイに到着し、中隊長以下の待つ警備地に安着したのは六月三日だった。

 思えばボルネオ東海岸タワオより西海岸ブルネイ到着迄六カ月心も身も弱り果てた兵隊の姿、中隊長以下到着者全員の三分の一程の人数にて私達は敵上陸に備え新しき任務についた。
なぜこの苦しい行軍にて此処迄来たのか戦局の苛烈さを話し合った。
空を飛ぶ飛行機は毎日敵機ばかりだ。ブルネイ到着七日目地理的にも分らないのについに来るべき時は来たのか、大隊よりの通報により敵の艦隊がブルネイ湾に侵入しボーホート及び前田島に上陸中との報に接し、私等の中隊は病人を残し元気な人は全員大隊と合併のためブルネイに急行した。
残る人見小隊長以下病人の心配そうな瞳に別れを告げる(小隊長以下全員玉砕)行軍中の兵隊の心境は如何だろうか。
タワオ行軍中残る病人の安危を気づかいながらブルネイに着いた。

 上陸を暗示する砲爆の物すごさ、六カ月を費やして行軍して来た私達寄せ集めの大隊、歩兵混成部隊は防衛のため立ち上ったけれど如何にせん病人のような兵隊では役に立たんと思われたか、敵上陸軍が接近した夜退却の命下り愈々山中への死の行進が始まった。
追われる者の恐怖はひとしおである。私達の中隊は最後尾になり、婦女子を中間に守り進んで山中へ、上陸敵軍の追跡は急となり、日本軍を殲滅せんものと照明弾をてらして迫撃砲弾が頭上をとんで行く。
恩賜の煙草を分ち合い玉砕の時期到来一戦を展開するものと信じていたが、ジャングル内に突入してより敵との距離は離れたのか偵察機がつきまとうのみだった。ああ助かったの感じだ。

山又山谷のジャングル、又再び死の行進ほ始まった。食糧の欠乏にグッタリと倒れていく兵隊が数を増してゆく。軍人精神からか自殺者が愈々増し、手榴弾自殺が私の小隊にも初めて出た。
内地にいた時運転手をしていた、西宮市出身の古木勇上等兵だった。原因は飯盒を紛失して炊事が出来ず毎日の苦痛を死によって解決した。何カ月か山中への道に昨日も今日も五人、十人と自殺して果てる日本人の姿よ。
あちらに二人、こちらに一人と歩行する力もなく横たわり、又座ってウツロな目で何かを考えている姿は人間ではなく兵隊でもない。この姿を我が妻が子が見たらと思いつつ歩行する力のない兵はそのままに、私達運のよい兵隊は司令部所在地に近きS村にたどり着いたのは昭和二十年八月二十日だった。

 終戦とも知らず生き残った兵隊を集合し部隊は警備につき、自給自足の計画にて百姓をして暮らす。定期のように通過するB29の爆音、戦局は如何だろうか、比島に敵上陸との話は聞いた。
思い出のマニラよ、競馬場よ、ついに終戦との通報発令九月上旬だった。
私は危機一髪死から生へ第二の人生が開けたのだ。武装解除の後アピーの海岸にある捕虜収容所へ集合した。姫路招集より現在、捕虜として集った中隊の何と少ないことか。タワオに又行軍中に死んだ戦友よ、戦いは終ったのだ。

 英軍の下に希望なき生活半歳、思いがけなく航空母艦カツラギに乗艦し、思い出悲しく幾多戦友がウラミを残したボルネオを出発、ベトナムのサイゴンに寄港して現地の日本人、日本軍を乗せた。
 まばゆく光る太陽の光り、そぴゆるキナバル山よサヨナラ、手を振る兵隊の感激の瞳、生と死に直面した人間の美しい別れの姿、来る時の恐怖なく、波静かに比島もすぎ無事故国大竹港に上陸、緑に映える白鷺城下の焼野原に下車した時は休重八貰四〇〇匁(三〇kg)だった。一生忘れ得ぬ日昭和二十一年四月二十七日だった。

 戦争々々何という恐ろしい人間の争いだろう。病人のような私等を再び生へ戻してくれたのは人間性ある旅団長の指導によるためだろう。敵上陸の時活路を求めて私等は救われたのだ。
ああ何時の世が来ても恐ろしきは戦争なり。この私の体験を二度と繰り返す事のないよう念じっつ、とりとめないが記録として残しておきたい。

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