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は し が き

ボルネオ会々長(元陸軍中将)  馬奈木 敬信

 「独歩三六七大隊の足跡」と超して広瀬正三さんがボルネオの戦記編纂を企図され、昭和四十五年同大隊慰霊祭の折に戦友諸兄の賛同を得て実行に移されると聞き心から喜びまた感謝の念禁じ得なかったのであります。
 いまの世に斯種作業が全く利害打算を超越した崇高な精神に立脚するものなることのみでも敬意を表せざるを得ないのでありますが、それにはさらに並々ならぬ苦労が伴ふことを篤とご承知の上で敢えて之を克服し、断乎として初志を貫徹される意志は正に戦友愛に燃ゆる一念と、戦友が祖国の為に火の塊となった史実を後の世の人々に伝えんとする愛国心に因るものならんことを忖度すればさらに頭が下るのであります。

 熟々当時を回想すれば世界を相手として立ち上った国民の覇気、転じて部隊そのものは極々の裡に黙々として戦勝を祈念しっつ悠久の大義に殉じた戦友の面影をしのびつつその芳霊に捧げ、他面戦友のきずなをさらに鞏固にせんとする」との意義や甚大なるものあることに思を致せば此の挙たる真に機宜に通したものと考えざるを得ません。

 素々私は序文を書く分ではないことを百も承知でありますが当時第三十七軍としての全般の作戦に関与した責任ある一人の戦友としてこの崇高なる壮挙に感激したからであり又記録的に見てこの種資料は生きた遺産としてご遺族や戦友諸兄に貴重なるものと高く評価したから禿筆を揮った処であります。



霊います所

皇學館大学々長  高原 美忠

 遠く海を渡ってボルネオに遺骨をひろうた時、ひろわれた遺骨のうれしさはどうであったろう。ここと思われる大密林の中、その底に草むす屍をおがむ心はいかにうれしく響いたろう。私はそのところに行くことができず、ただ思いを遠く はせているにすぎぬが、荒井神社宮司、文武兼備の広瀬君はこれをなしとげて下さった。しかも「あゝボルネオ」という一冊の記録を編纂著述して下さったうれしさに、私が行って来たような思を与える。

 戦って死んだ人のおもいは、ただ国を思い、世界の平和をもとめるにあった。日本人なら誰でもひしと感ずることのできる尊い心である。
 戦後二十六年を経て、あの時の恩讐をこえ、ただ神の心になって幽界に帰った霊は敵も味方も一つになって世界の平和を護っていて下さると思う思う。
 我々は現世にあって富と貧しさを知り、快楽と苦痛を知っているが、神となってはすべてのものが富み、すべてのものが楽しく、貧しさも、苦しさも脱却した世界に入って居られると信ずる。我々は貧しさにより、貧しさのうちに富を知り、苦しさにより、苦しさのうちに楽しみを知ることができる。その貧苦にうち克って努力するところに富と楽しみがある。その最も大きな貧しさと苦しみに克った霊のいます所、限りなき富と楽しみに輝く世界を尊く思う。
 私は限りなき苦しみ、限りなき貧しさにより尊い人生を知り、その人生を知った霊を謹んで拝み奉る。



序  文

兵庫県神社庁長  加藤 錂次郎

 わが同窓生、荒井神社宮司広瀬正三氏は剣道七段の達人である。その令息が又剣道五段の猛者である。親子二代揃って剣道の達人であることは、近代社会に珍らしい現象である。令息は皇学館大学、大学院修士課程を卒へられた少壮の学者 で、現在神戸、生田神社の神職として奉仕されている。広瀬宮司はかかる武人であるが、傍ら幼児教育の場を経営していられる。人に接するにやさしく、親切且ついんぎん鄭重である。御挨拶に至っては、礼に始まり礼に終るという、武道のこころ精神がなすわざであろうか、この人程立派な態度の人は私の知る限り、他にその例を見ないであろう。

 広瀬宮司は支那事変勃発当初より姫路師団に応召され、赫々たる武勲を立てられ、再度大東亜戦争に召されるや、南方派遣軍の中隊長として赤道直下のボルネオ戦線に転戦され、九死に一生を得て帰還された方である。
 その間今日に至るまで常時戦友将兵の身に深き思いをいたされ、旧交を温め、かつ御遺族とは睦び和ぎ、とりわけ護国の神と散られた英霊の遺骨収集のために一昨年重ねて遙けき現地を訪れる等、戦友を思う努力を続けて来られたが、今回御社頭きわめて多忙の中を、余人には到底真似出来がたき御熱意を以て「鳴呼、ボルネオ」という記録を編纂出版せられ、武勲を立てられた戦友将兵の事蹟足跡を永遠に後世に伝えんとせられたことは、広瀬隊長のお人柄を語るものとして、その労を称え、上梓を祝して一筆を記した次第である。


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