父の故里(播州龍野)歳時記
ふるさと歳時記
恒雄
ふる里歳時記、この題は以下綴り行く記事と、あるいは似ても似つかぬ内容になるかも知れない。
しかしふる里で永年にわたりくりかえされた年中行事を、父母が貧乏なら貧乏なりに家庭生活中に採りいれて、子供に伝承し親子の心のつながりを深めることに役立てたと思うと、自分史の一項に加えることも、必ずしも意味のないことでもあるまい。
従つてこの歳時記は、私が自立するまでの父母とのつながりの面から書いて見たいと思うのである。母の残した句の中に
しきたりに 主婦忙しき 大晦日
と言うのがあるが、年中行事を大切にした母の姿が、うかがえるのである。
◆年末年始
私は結婚して一家をなすまで、年末年始は生家で過ごすのが例であった。そうして手土産に灘の生一本日本盛を二本持って帰ることにして居た。大晦日の夜、神棚から仏壇まで、すっかり迎春の準備が終わる。すると父が、「皆が帰って来たのじゃ、一杯つけたら」と母に促すと、母は肴を見つくろって酒の燗にかかる。父は勿論、兄もいける口、次弟の茂も加わるようになってからは、男四人、酒は除夜の鐘まで続くこともしばしばであった。
元旦には五時頃に起床し、仏壇の前に全員揃う。父の先導でお経が始まる、正信喝、念仏とつづく。終わって御文章があげられ、父が皆に向かって「明けましてお目出度う」と挨拶して終わる。
昭和六年私が産業組合中央会兵庫支会に奉職したとき、当時の農村は深刻な不況下にあった。農村の振興のため、自力更生運動が提唱せられ、支会に於いても県下組合員の精神高揚を図るため、明治三十四年にかんぱつされた、戌申詔書を巻物とし、県下各町村の産業組合に一巻づつ配付し、組合員総会等にこれを奉戴することをすすめたのであった。
私はこの一巻を頂き持ち帰り父に差しだした。以来父は正月元旦にはお経が終わると、この詔書を奉戴することとし、元旦の行事の一つに加えた。
『方今学術益々ヒラケ、人智日ニ進ム、シカレドモ浮華ホウショウノ習イ漸ク萌シ、軽チョウ危激ノ風モマタ生ズ 今ニシテ時弊ヲ改メズンバアルイハ先ショウ失墜センコトヲ恐ル云云』と。
それから朝祝いに移り、屠蘇、雑煮を祝った、今年は餅十個食べた、いや俺は十一個だと、雑煮の数を自慢しあったのも懐かしい思い出の一つである。
朝祝いをすますと、母の手織の綿入りの羽織着物を着て、年始にでかける、行き先は先ず分家『山本薫さん宅』お年玉をもらって帰って来ても、未だ夜は明けきっていなかった。
父も分家、菩提寺、氏神さまの神戸神社とまわり、時にわ国鉄『JR』網干駅前の朝日山観音様に参詣して帰るのを例とした。私も時々お供をした。
小学校に入学してからは分家への年始姿に袴を着けて登校し、元旦を祝った。
『年の始めのためしとて、おわり無き世の芽出たさを、松竹たてて門ごとに、祝う今日こそたのしけれ。』これは、君が代につづいて歌った『年の始め』の歌の一節である。
◆子供の遊び
正月は今もそうであるが、子供にとって楽しいものであった。
『お母さん、もうお正月は何処まで来てる』と思えばたわいもない質問でわあるが、年末がくると交わされた会話の一つであった。
子供の遊びには大体三つあった、一つは独楽回し、二つには歌留多とり、三つめが凧あげであった。
独楽は秋の収穫がおわる頃になると、玩具屋で売り出され、正月遊びに備えて買いもとめて、心棒の調整をする。当時心棒の中心がとれていない為に、上手に回らないものが多く、これを兄に頼んで直してもらい、正月を待つのであった。
独楽遊びは部落の、一年生から高等科の生徒まで、殆ど全員が集まる。場所は部落内で広い庭のある家が選ばれた。
『おーい、独楽のかちやい、やろうや』場所は貞さんとこの庭で、『貞さんとは私の兄の名である』私の家は独楽遊びの場所とよくなった。子供は二十人近く集まった。子供は十人ずつの源平にわかれ、一、二、の三つの掛け声もろとも独楽を回し、相手の独楽とかちあわせ、勝敗を決めるのである。勝ち残った数で勝敗を決定した。
一、二、三つ、朝から夕方迄元気な声が続くのであった、これにあきると田圃や川の土手に出て、凧上げを競うのであった。
歌留多取りは夜、友達の家の座敷で行われ源平に分かれて取り合うことは昔も今も変わりがない。時には父母も加わり、父が読み手となって家庭でも行ったものである。
『正月三日は、よいものじゃ、あかい、べべきて羽ついて、明日は大根のごうわかし』と言う謡がある。或る日『大根のごうわかし』とはどんなことかと尋ねると、母が、正月の煮メには、高野豆腐、里芋、人参、こんにゃく、大根等を入れて作るが大根が何時も残されて、四日には捨てらる、それで大根が腹を立てるのだと教えてくれた。
五日の新年宴会の旗日が終わると小学校の三学期が始まる。
◆七草粥
『芹、なずな、ごぎょう、はこべら等ほとけのざ、すずな、すずしろ、これぞ七草』の歌があるが、我が家の七草粥は大根とみずなをつかって作った様である。
◆とんど「左義長」
一月十四日の夜行われた。私の部落では男子が十六歳になると子供頭となり、『とんど』の準備の責任者となる。『とんど』は次の図の様に五米以上の松の木四本で櫓をくみ、その中に藁塚を作るのである。
松の木の四本柱と青竹は子供頭の家で供出する。藁塚の藁は部落中より集められる。藁の供出量は耕作面積によって不文律の中に決まっていた。
『とんど』の当日十四日の午前中に、材料は『とんど』場に集積され、午後になると大人達が集まり櫓の組立にかかるのである。藁塚は私の地方では『ワラグロ』と言った。『わらぐろ』をあみ揚げて行く大人の指図に従って、子供は五束づつ藁束を並べてゆく。出来上がると大人達はそれぞれ帰宅する。さあ、それから子供等には一仕事がある。と言うのも、『とんど』は大人は火付け役、子供は容易に火をつけさせまいと防戦にあたるのである。容易に火がつかないように、大人達が帰ると、溝から泥水を汲みあげて『とんど』にぶっかける。又大人が松明状にふりかざして来る火を消すために、『ポンポラ』と言う藁を芯にして縄を堅くまきつけた棒状のものを作り、太陽の沈むのを待つのである。
日もとっぷりと暮れると、いよいよ大人と子供の火の合戦が始まる。大人も子供も火の粉をあびても熱く無いように頬かむりをし、手袋をつけ、誰が誰やらわからない、物々しい装い、部落のひと人も見物のために、注連縄、古いお札、鏡餅を持って集まる。
『熱い』火の粉を浴びた子供の悲鳴、『痛い』ポンポラで叩かれて悲鳴を上げる大人の声。『痛い』『熱い』の入り乱れる攻防戦に見物人の揚げる歓声が加わって、火の祭典は『クライマックス』に達する。
しかし子供の防戦も力尽き、火は『とんど』に放たれ、パチパチ、パーン、パーン、と火炎は大空を焦がすのであつた。
正月に書いた書初めを竹の先に挟んで炎に翳すと『天まで上がれ』とばかりに、夜空に高く高く舞い上がる。満足そうな親子の顔も火炎にほてって赤々と光って居た。炎も漸くおさまり始めると、各自持参の鏡餅を焼きにかかる。ワイワイと言いなから餅焼きは深夜までつづく。
◆小豆粥
『とんど』もすんで、明けると十五日、『とんど』で焼いた鏡餅を入れた、小豆粥が朝食である。粥は先ず、神棚、仏壇に供えられて、一家揃って頂くのが、習わしであった。 炊きあげた鍋を母が家族の待つ膳の前に置いて蓋をとると、プーンと美味しそうな小豆の香りと、香ばしい焼き餅の香りが漂う。立ち昇る湯気が、折から差し込む朝日に揺らぐ今もあの時の光景が瞼に焼き付いて離れない。
母は先ず父に、次いで序列に従って粥を注ぎ『サアおあがり』と自らも箸をとり、今年の無病息災を祈って頂くのであった。
◆藪入り
一月十六日十七日『今日は、藪入りや』と母は独語のようにつぶやいて火鉢で餅を焼いて、砂糖醤油を付けて食べさせてくれたことがあった。今にして思うと、年末から年始にかけて、忙しく立ち働いた母にも、一寸休みたいと思って、一瞬出た言葉であったのか。
◆寒 行
一月も半ばになると大寒である。日蓮宗や稲荷信仰に熱心な人達で、団扇太鼓を打ち鳴らし、寒行が行われた。我が家から南西に当たる東山の麓の茂み中を一行が提灯を提げ太鼓を打ち、お題目を唱えながら、東から西へと過ぎて行く。不思議に思い母に尋ねると、『寒施行と言って、寒い時には山の獣も食う物が無くなるので、あの人達が油揚げ等を施して行くのだ』と教えてくれた。団扇太鼓のリズムに乗って一行の唱えるお題目の声は、或いは高く或いは低く、我が家の下の道を南から北へと消えて行った。大寒の夜の風物詩の一つであった。
◆二月一日
この日を我が地方では、小正月とも言った。子供の頭を勤め上げた、男子は青年会に入会する、この日から青年である。この日の行事として、部落の蓮池を浚えて一年間に住みついた、鯉、鮒、鰻、鯰等をとるのである。敗荷「枯れ蓮」の間を泥にまみれ、しかも寒の明けとは言うものの一年中で一番寒いこの季節に。
獲物の魚は竜野駅前の旅館や料理屋村人に売りさばき、売上代金は当日入会の新会員の歓迎会「すきやき会」の費用にあてられた。
◆二月二十二日
太子祭り、我が部落から約四キロのところにある、斑鳩寺「国分寺の年初めの祭礼である、これに就いては既に述べたので省略する。
◆すべり山
太子祭りに行かなかった子供達は、部落の裏山に登って、山滑りを楽しんだ。この山の一部が地滑りで、やま肌が露になり、幅五、六米、長さ二三十米はあったであろう、しかも角度は六十度位の急角度であった。握り飯を作って貰い、藁で作った橇を持って出掛け、この頂上から滑り下りるのである、滑っては上り、登っては滑りおりる、近頃河の堤防の芝生の斜面を段ボールを尻に敷いて滑って居る子供を見かけるが、同じ様な事を遣っているわいと、思わず微笑みが漏れるのである。
太子祭りが済むと野山は次第に春めいて来る、雨上がり等には、南西の姿が富士に似た東山には、雨霧が立ち昇り、山裾にある藪の青さが、まるで墨絵でも見るかの様に美しい
さ霧立つ ふる里山や 竹の春 恒 雄
藪椿もさき目白も目立ち、始める 。
◆三 月
部落中央の山懐に小さな社がある、村人は荒神様と呼び、二つの社からなり、向かって左が大神宮様右は荒神様をお祀りして居る。祭礼は子供頭がとりしきり、三月は荒神様のお祭りで、僧をよんで呼んで祀る。
◆四 月
三日は神武様と言って学校は休日であった。この頃になると桜やこぶしが一せいに咲き出す。我が家の年中行事の一つに 孟宗藪の手入れと言うのがあった。
三日に限ったことではないが、この日には巻き寿司、お握り、煮メを重箱一杯につめて藪に出かける。藪は南斜面を拓いて百坪程はあった。この藪に四米位の間隔に幅六十センチ、深さ三、四十センチの溝をほり、これに当時豊富であった白子〔にしん粕〕をたっぷりと埋めこむのである。朝早くから作業を始め、お昼には母の手作りの御馳走に預かるのである。父は美味そうにコップ酒を乾していた。特に新春早々にとれた、モサモサした『青海苔』で作った巻き寿司は珍品で、もう一ぺん食べたいと思う。山にはつづじが咲きほこり、木々の新芽がまぶしい、父をはしめ子供達もほんのりと汗をかいて、肌を脱ぎ春風に涼をとることもあった。
筍は、魚肥をたっぷりとたべて、素晴らしい出来映えであった。シーズンには父が早くから堀出して、特約している八百屋さんに売りさばいた。時には相生の町まで売りに行くこともしばしばであった。
◆五 月
山は青葉に飾られ、爽やかな風が頬をなでる。田圃は、小麦裸麦で覆われる。五日は五月の節句である。母が山へ行って『うまごえの葉』を採っておいでと言いつける、私どもは兄に連れられて、山に行きサルトリイバラの葉を摘んで帰る。所によっては、山帰来とも言うそうだが、私どもの古里では柏の葉がないので、これを使った。母は、小豆、そらまめ、時には馬鈴薯等で餡を作り柏餅を食べさせてくれた。
この頃になると蓮池には、蓮が小さな若葉を水面に浮かべ始める。澄み切った池面に父は種籾を漬けて苗代の準備にかかるのであった。たっぷりと水を吸った籾は、やがて芽をきり、苗代に蒔かれる。
◆麦 秋
この言葉は今は俳句の歳時記に残る懐かしい季語である、この間も丹波地方に商用で出掛けたが、休耕田の一角に裸麦が黄色く、いろづいているのを見て懐かしかった。
麦の秋 休耕田の 一角に 恒 雄
昔は麦作は大切な収入源であり、その収穫時はほんとうに猫の手も借りたい程であった。
裸麦は万力で穂首を落とし、殻竿で打って精穀する。殻竿唄があちこちで聞かれたのもこの頃で『ああなんじゃいのう、ひょうたんや』と。
◆出 水
部落の耕地は低く、よく出水に見舞われた、大水が出ると五町歩ばかりの田地が冠水する。田植え前の出水のときは、鯉、鮒、鯰等が泳ぎ廻り、父はよく、大鋸をもって出掛け、回遊する魚を目掛けて鋸をふりおろす、時には目の下三四十□の大物をせしめて帰ることもあった。
◆七 月
田の草取り、田植えが終わると田の草取りにかかる、昔は一番草から、七番草迄取った、七番草を止め草とも言い八月の初め迄かかることもあった。
一番草は熊手をもって稲の株間を一鍬一鍬かじき起こす、これが終わると草取りで、丁寧にやる人は七番まで田を這いずりまわって一株一株手をふれて草を取ったものである。
草取りは早朝から昼までの涼しい間の仕事で午後は午睡をとり、三時頃から五時頃まで働いた。田水は炎天下湯の様に熱く沸き返り、午睡後の出動は大ぎであった、父母はクチグセのように『田の草襦袢を着ると気がシャンとする』と言った。。田の草を取る田圃からは、播州音頭がよく聞こえ来た。
「ああ、筑前、筑後、肥後、肥前、大隅薩摩で六カ国」アア、ヨイトサノマカセドッコイセ」これは石堂丸が九州から高野山の父をたづねて行く悲劇の物語のでだしで、松造さんがよく歌った、松造さんはよく盆踊りの音頭をとったが、長男の平君を大東亜戦争で国に捧げた。
播州音頭は、草取りの作業歌としてよくあったものである。
七夕祭り
田の草取りも済んで、八月は夏休み、七日は七夕さまである。
藪から若竹を持ち帰り、準備にかかる。七夕様は初物食いとゆわれる。茄子、胡瓜、ささげ、ほうずき等をお供え物とし、短冊には天の川、おほし様等それそれ思い思いの願い事をかいて吊るす。
了