孫 「お祖父さん、宿題で戦争体験談を出せとの事なので、はなしを聞かして欲しい」
私 「戦争体験と言っても何から話して良いやらわからない。お祖父さんの戦争体験は直接兵隊として服役した期間だけでも昭和13年9月から復員の昭和21年5月迄7年7か月になるから、中々多く、何から話して良いか分からない。そうだ自分史の原稿が有るからそれを読んで書いたら良い」
自分史を見ていた孫はまた来て、「これではわからない、なんとかしてよ」と言う。そうかと言って話だしてみるが纏まらない。
私 「○○よ、2回目の北ボルネオの従軍に絞って話そう」と語り出して見たものの、又又一寸長い物に成ってしまった。
『はなし』
昭和19年7月28日姫路110連隊に入隊して編成を終わり、8月4日門司港から輸送船に乗り込んだ。船団は27隻の大船団で、命令を聞いて、驚いたのだが、「軍は此の船団が半分目的地に到着することを以て成功と思う」とのことで、無茶な話だなぁと思った。果たして五島列島に差し掛かると、敵の潜水艦情報が出た、沖縄の沖では、はやくも、2隻・3隻と撃沈された。撃沈と言っても「轟沈」で魚雷が命中すると瞬くまも無く沈んで行った。船は船首から突っ込み、スクリューを海面に出して、空回りしているのがみえる。海へ飛び込む者、マストに攀じ登って行く者、暫くすると日本の駆潜艇が来て救助に当たるが助かるものは僅かしか無かった。
2・3日して台湾の高雄に着いた。此処で2・3日停泊した。上陸が許されてお祖父さんも上陸して高雄の街を歩いた。当時内地ではキャラメル等のお菓子がもう食べられなくなって居たので、買い求めて,お祖母さんに送った。この小包みは無事に着いていた。
停泊中に台風に襲われ、大きな汽船が海岸に打ち上げられたり、大波を被って沈んでいった。船員が助けを求めてマストに登って行くが次第に見えなくなって行く、しかしながら誰も助けることは出来ない。
台湾とフイリピンの間の海峡・バシ−海峡を無事に越えて比島のアパリ港に入った、此処で船団は解除せられ上陸、改めて小さい100石舟に分乗してマニラに向かった。この船には家庭で使う小さなお釜しか無かったので100人余りの兵隊の御飯を一度に炊くことが出来ず、其から一日にお茶碗、一杯しか当たらなくなった。腹が減り、虱や南京虫に悩まされた。
船が小さいので朝から夕方まで走って、夜は休むとゆう具合で能率が上がらながった。腹が減る、夕方港につくと岸まで泳いで行き、椰子の実等買って、小脇にだき泳いで帰り甲板で割って呑んだ。月が冴え渡り、故郷を思い出しつつ・・・
またこんな事もあった。船長さんが大きな釣り針を流して、大きなススキを吊り上げたことがあった。大きな物が釣れたときは100人の兵隊がお刺身の御馳走に預かることができた。
船はどんどん進んでサンフエルランドと言う港についたとき付近で海水浴をしたが、その時沈没船が沢山あった、日本の物か敵のものか分からなかったが。
目的地のタワオに着いたのは10月6日、8月24日アパリ出てから42日かかった訳である、因みに門司を出てから63日で、中機帆船行軍は42日と言うことになる。
孫 「タワオに着いてからどうだった」
先ず宿舎だがその当時日本から進出していた三菱系の農園があって、その農園の倉庫が宿舎とされた。10月6日と言うと内地は秋、彼方では夜は蛍昼は燕が飛び交い、蛙が鳴き、スコ−ル(夕立)が毎日来る、それも毎日30分遅れで定期便の様に来る。
そこで敵の上陸に備えて塹壕を掘った。しかし悲しいことに、塹壕に据えるべき兵器はなに一つ無い、悲しかった。又食べる物が少なく椰子の実の水やタビオカ(きいも)バナナ等を食べた。しかし御馳走もあった、タワオの海岸では大きな海亀が採れた、その肉は鶏に似て美味しい又沢山の卵を持ち鶏の卵に似ている。又野牛が居てこれを射止めて料理して食べた。正月と言うとお餅、しかし糯米はない、そこでタビオカを撞いてお餅にして内地を偲んだのだ。
正月だというのに敵の空襲は日毎に激しくなってきた、しかし是を撃つべき高射砲がない、敵のなす儘、悔しい事、悔しい事・・姫路を出るとき、兵器、被服は台湾、マニラで貰えとのことであったが、内地から送られない物が、どうして此方に在る筈が無いとの事であった。お祖父さんらは、姫路を出るときに貰った弾・銃・被服・靴等日本に帰る時まで新しいものは補給されたことは無かった。
正月が過ぎると新しい命令が出て・タワオからブルネ−に転進する事となった。お祖父さんは11月に編成替えがあって第3小隊長に命ぜられていた。そうして昭和20年2月軍の命令が出た「ブルネ−方面に兵力を転用するため作戦道の修理」に従事せよとの命令であった。12日に出発し・・バロンを起点にして行軍の小屋造りに当たった。雨の降るときは長い行軍に備えて、小さいときにお祖父さんがお父さんから習った草鞋の作りかたを教えた。藁が無かったので、現地のマニラ麻を利用した。
大きなワニが居た、時々河で飯盒等を洗って居て、水に隠れて居て姿が見え無いので安心していると突然大きな尻尾で打たれ、怯んで居るときにぱくっと食われるのである。又ジャングルと言うと木が一杯生えて居るので、食える物も沢山有るように思われるが食べられる物は少ない。僅かに現地人が生活した様な村のあとが見つかると、其処には、甘藷の葉や唐辛子の木が在って赤い実をつけている時も在った。塩の無い時は赤い唐辛子で味を付けて食べた。勿論葉も摘んで炊いて食べた。しかしそうして塩のない生活をして居ると小便は少なくなり、怪我などした時出る血も朱の様にただ美しいだけで粘り気が無くなり傷すると止まらない。元気もなくなる。蛭や蚊は大敵で、吸い口等が、膿んで其処に蛆が湧いてカイセンとなり又マラリアになる。
行軍をしていると道端に「○○君の墓」と書いた細い木で作った墓が段々と増えて来た。元気を出さないと何時自分が死ぬかわからない。不安が一杯だったが、お祖父さんは、輸送船の中で教えられた『俳句』を作ることに専念してこの不安から逃れる様に努めた。
又スコ−ルも恐ろしい。ある時カロンバンと言う河を渡った時のこと、お祖父さん達は無事に渡り終え行軍を続けて居るとスコ−ルにあったのだ。みるみる中にその道が河となり、水は背中迄来てビショ濡れになった宿舎で休んでいると、伝令が来てあの河の吊り橋がスコ−ルで増水し、落ちたと言うのだ。又そのとき伝令の一人が流されたと言うので橋の修理や流された兵隊の捜索に当たった。その兵の名は陸軍兵長平岡光治といって、行軍最初の犠牲者だった。
色々あった。死んだ馬をくった事もある。ジャングルの道は大きな河、小さい河が数多い。其には橋が懸かっては居るが、象に踏み潰されたり丸木で馬は渡れないので死ぬ外無い。お祖父さん達は此の馬を料理して炊いたり焼いたりして食べた。すると元気が出て、小便は気持ち良く大量に出た。あの時の気持ちの良かった事は一生忘れられない。象の姿は見ない、しかし糞は大きくお正月の時にお供えする鏡餅のようで山盛りに積もっていた、足も早く泳ぎもするらしい。襲われでもしたらあの当時ひょろひょろしていたから逃げられなかっただろうと思うと、今でもぞっとする。
毎日歩き続けて漸くジャングルを抜けることができた、3月10日ラナウと言うところに着いた、兵舎に立てられた『日の丸の旗』南国の青い空に翻って居るのに涙がこぼれた。ラナウは北ボルネオで一番高いキナバル山の麓に或る町で、宿舎も板作りでタワオ出てから寝たことも無い立派な物で在った。山小屋では床は丸木やせ衰えた体では寝ても骨が当たって痛くて眠られ無い。しかも寝ている間に、ゲ−トルの間や靴の「はとめ」から忍び入った蛭に吸われ朝目覚めると股の間や指の間が痒く、ゲ−トルを取ってみると血を吸った蛭が潰れて死んでいた。蛭の吸い口からは血が止まらない。
ラナウでは大休止で3日間休んだ。合間を見て現地人の作った田に出て、陸稲を摘んで、鉄兜で籾撞きをうして白米を作りブルネ−迄の食料に当てた。陸稲も出来るだけヒツジ田を選んで摘んだ。あちらでは暑いので稲も刈り取った株から又芽が出て穂が出る。
ラナウからの道は平坦で簡易舗装の道も在ったから歩き良かった。どんどん歩いた。4月25日目的のブルネ−に着いた。100名ばかりタワオを出た者がブルネ−に着いたのは20名近くであった。中隊では、中隊長・第1・第2小隊長が途中マラリヤ等の為到着が遅れたので、お祖父さんは中隊の責任者として行動した。命令で旅団長を始め、幹部の方々と共に付近の山の陣地偵察に毎日出た。その時この少ない人数でどうして,あの広い所を守る事が出来るのかとの心配と言うより、不思議に思った。そうして居る間に一月立ちついに戦闘命令が出た、いよいよ敵が上陸を開始したのだ各隊は戦闘準備に着いた。
お祖父さんは3小隊の兵隊と共に,ブルネ−河畔に出て、警備に就いた。兵隊の諸君と共に是が最後と思い三田軍曹や、兵隊の諸君と、大切なお米を飯盒で炊き銀色の白い御飯を腹一杯食べて戦闘に備えたのであった。艦砲射撃は激しく成ったと思うと気味悪い静けさに戻る。そのとき中隊の本部から伝令が来て、小隊は中隊の本部のある所迄引き上げよとの事であった。
引き上げてみると、明々と焚き火がされて何か異常な雰囲気であった。中隊長に報告すると。隊長から飯盒の蓋でブランデ−だと言って酒を戴いて・・・・『部隊は退却する事と成った、目的地はテノム』とのことであった。異常の雰囲気の中に退却の準備が始まった。そのときお祖父さんは病気の兵隊を山の上に残して居るのを思い出して、中隊長に聞くと未だ連絡して居らないとのことであったので、兵隊全員で「オ−イ、オ−イ」と呼んだが答えは無かった。又3小隊の高松と言う兵隊がブルネ−河の警備に出るときマラリヤで熱を出していたので宿舎に残していたが、退却と決まったので一緒に連れて行くべく立ち寄ったが、姿は見えなかった。
暗い内にブルネ−河を渡る予定が遅れて夜明けも過ぎて明るくなってしまった。渡河に色々のトラブルがあったがやっとの事で渡り終えた。しかし渡り終えた地点は、サエヤマと言い、此処で戦闘が行われたが何一つ抵抗する武器を持たない日本軍は敵のなす儘であった。大隊に機関銃が一つあって敵を目掛けて撃ったがお返しに何発もの砲弾が打ち返されて、負傷者が出た。お祖父さんの隊でも、阿部と言う兵隊が足を負傷した。幸い軽かったので行軍は続ける事が出来たが・・・
サエヤマから歩いて2日目であったか河があり現地人の丸木舟で渡り終え、命令が出て、「是から10日は村里が無い従って米を徴発することができないから各自此の村の籾をとって米にして携行せよと」言うことであった、2日間の休みが与えられ皆一生懸命籾を鉄兜でついて白米にし、靴下に入れて背袋に入れて,行軍の準備をした。
其からの行軍は退却行軍。落伍すると、皆敵に殺される。始めブルネ−迄の行軍のときは現地の人達も日本の兵隊に好意を持ち、いろいろと協力してくれたが、退却行軍のときは反対で、例えば米等取って行くから、泥棒同然で悪意を持っていた。又道は険しく本当に道を作りながらの行軍で下には河が流れ、足を滑らすと落っこちて上がれない。多くの兵隊が河の水にさらされて死んで居るのが見える。
10日で出られると思って居た所が20日経っても村は無い。米は段々無くなって来る。疲れて落伍するものがふえて来る。本当に地獄だった。ある日野宿のために草や木をきっていると鎌にかちんと音がした、何かと探して見ると、大きな亀が2匹居た。お祖父さんは「亀だ」と大声を出すと、夫馬と言う兵隊が「隊長其は食べられます」と知らせて呉れた。「どうして食べるか」問うと料理の方法も教えて貰い、皆で分け合って食べた。身はカシワの如く、沢山の卵は鶏の卵の様に美味しかった。鶴は千年亀は万年と言う事がある。是はめでたいと皆で喜び合った。
そのころジャングルの中にビラがまかれ、イタリヤ・ドイツ等日本と同盟を結んで居た国々が降伏したと書かれて居た。日本も負けたな−と思った、敵の飛行機も飛んでは居たが高い所で空襲の気配は無かった。
しかし、悲しいとも情けないとも感情は少しも湧かない只ひたすらに歩いた。7月26日目的地のケマボンに着いた。
兵舎は藪の中にあった。床は南方特有の高さだが、丸木仕立てであったので寝たときは痛くて困ったが、破れ毛布や被服を布団変わりに敷いて寝た。疲れが一度に出て来た。ぐっすりと寝たお祖父さんは此のケマボンから度々大隊本部に連絡に行った。ある時途中に広い平原があって、其処を渡る時、敵の飛行機に見つかると機銃掃射を受け危ないから、朝早く渡る様にしていた。その時も早朝に出発し軍司令部に着いて参謀に会った。すると帰る時に「曹長帰るときはもう敵の飛行機の心配は要らないよ」と言われた。又大隊本部に行ったときは大隊長が「山本今度の戦争は負けると思うか、勝つと思うか」と質問された。けったいな事を言われると思いつつ帰途に着いた。帰りに平原の入口に小屋が在って南京豆の菓子を売って居た。連れの兵隊とともに立ち寄った。
菓子を食べ土産に少し買って帰り掛けた時、連れの兵隊が「隊長今神戸から来ている軍属に会いました。話によると昨日短波のラジオを聞いて居ると天皇陛下の放送が入り、敵は無条件降伏したそうです。我々も近く帰れます」という。司令部の参謀の話、大隊長の話、今の兵隊の話、何か在ったなと思った。
其から暫くして軍から武装解除・無条件降伏の通達があった。兵器は全部取り上げられた。夜土人の銃声は激しく成った。何だか不気味であった。
暫くして9月24日豪州軍の捕虜となり、ボ−ホ−ト、パァパ−ル、アピ−と収容所を転々とした。
昭和21年4月16日アピ−を出航して内地に向かい4月26日大竹港に入港復員し、久々に内地の土を踏んだ。
其から1、2か月マラリヤに悩まされた、今年はあれから50年になる。しかしボルネオで亡くなった戦友の事は何時も頭の中にある。毎年9月の第三日曜日には生き残った戦友と慰霊祭を行い、遺族の方々と話を交わすが戦友の顔が今尚思い出されるのである。しかし参加者も年々減ってゆくのは淋しい。
最後にお祖父さんの作った俳句のいくつかを書いて置くこととする。
記
出征を 告げる墓参や 蝉時雨
一瓶の 薬に頼り 夏の航
椰子林に 病む兵の皆 妻子あり
夏蝶の 濁流渡る 真昼かな
戦友の 墓標おろがみ 青嵐
斃馬食らい 生き心地して 十字星
深けし夜や 砲弾も絶え 十字星
武装解除 寂と声なし ヤモリ泣く
ゴム林に 垂れし豪旗の 下潜る
斎主しづと 熱砂をふみて 慰霊祭