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II. 母の戦争体験

 昭和十三年七月十日長岡先生〔私の職場・鶴見橋裁縫女学校の校長〕の紹介で恒雄と見合いし、縁あってか、婚約の誓いをし、十一月に結婚式の日取りも決まり、母は物資不足の中から衣装など、あれこれと整えてくれました。しかし風雲急な折から、九月十四日突然彼に召集令状が届き、九月二十日入隊との電話があり驚きました。急遽仮祝言と決り、大騒ぎとなりました。母が調えてくれた嫁入り衣裳に袖を通す事も無く十七日の仮祝言から二十日の入隊の日迄、僅か三日間の新婚生活でした。十九日には恒雄の故郷の山本家に行き、清く・正しく・強くと将来を誓い合いました。

 明日は征く 夫と来て泣く 萩の蔭   品子

 女々しい、非国民と叱られても二十七才と二十三歳の多感な感情は止める術も有りません。翌二十日入隊の日は激しい雨でした、あの日の赤い襷の色は、今も鮮やかに残って居ます。万歳・万歳と叫んで見送りました。その日から私は出征軍人の妻と早変わりしました。何だか、じっとして居られない気がして、その翌日気を取り直して職場〔鶴見橋裁縫女学校〕に帰りました。

 姫路・岡山間を許される面会や外出の機会を利用して、通い暮らし約一年は無難に過ごして来ましたが、昭和十五年五月南支那に派遣が決まり、母兄共々宇品港迄見送りに行きました。「ああ・あの顔で・あの声で・手柄立てよと・妻や子が・千切れる程に振った旗」と出征兵士を送るメロデーとともに、兵士を積んだ船は段々遠くに霞んで消えて見えなくなりました。その時私の体には小さな生命が宿って居たことは、神のみぞ知る、彼も知らない儘の出発でした。やがて妊娠が確かと告げられて、九月の二学期を限りに退職して、興除の実家に身を寄せ、初めての出産に備える事としました。

 昭和十六年二月一日大きな産声を上げて、動乱の世に男の子が生まれたのであります。父の顔も知らずに三歳になった昭和十八年五月召集解除となり、父と子の初対面となりました。早速神戸の垂水に居を構え、親子三人揃って暮らす事となりました。十九年三月には次男が生まれ,家族四人の落ち着いた生活となりました。しかしそれも束の間、次男四箇月目の十九年七月に再び彼に召集令状がきました。今度はボルネオ派遣となり直ちに戦地に向かって発ちました。

 戦争は日々に激しさを増し、内地の空にはB29が毎日襲って来るようになりました。警報の度に、赤ん坊の次男を柳行李に入れ、長男にリュックを背負わせて近くの防空濠に走り込むのが毎日の日課となりました。子供二人を育てるには食糧不足、家の食糧事情を少しでも良くしようと、警報解除のサイレンを聞くと直ちに、雑炊食堂の列に並んで待ちました。そんな生活を見兼ねて、母は岡山への疎開を勧めてくれたのでした。当時私の実兄も出征中で、兄嫁も二人の子供を連れて留守を守って居ましたので、その家に同居させて貰う事となり、家財道具を整理して、やっとの思いで岡山へ引っ越したのでした。

 しかし岡山も安泰では有りませんでした、六月二十九日灯火管制で暗い部屋が一瞬パット昼の様に明るくなったのです。「あっ・空襲」と直感して飛び起きました。その時早くも暗いガラス越しにB29の不気味な黒い機影が見えたのです、無数の焼夷弾が雨のように降り注いできました。何の警報も無く、不意の空襲で有りました。此の儘では、此の家も焼け出す、皆焼け死には必定、何とか外へでなければと、次男を背負い、綿入りの「ねんねこ」を水で濡らし、頭から被せ、長男を起こし、非常用のリュックを背負わせ、寝惚けてむづかる手を掴んで外へ出ました。

 ブシュ・ブシュと嫌な音を立てて、焼夷弾が雨の降るように落ちてくる。路地には泣き叫ぶ人の声、右往・左往する人の影で一杯です、阿鼻叫喚・焦熱地獄とはこの事でしょう。そうだ表通りの「柳川筋」で電車の敷設工事をしていた溝があった。無我夢中でその方向に突進して、溝の中へ飛び込んで身を伏せました。溝の中では傷ついた人が助けを求めて叫んで居ます、猛火は風を呼び、風はまた猛火を呼んで、火の粉が凄い音を立てて、私共を横殴りにして往きます。道の両側の家々は一軒残らず焼け落ちて、正に生き地獄です、あぁ是までかと思いました。死ぬなら三人一緒に死にたい、子供を必死に抱き締めて伏せて居りました。

 何時間か過ぎました、夜が明け始めました、B29の機影も何時の間にか見えなく成って居ました。「あぁ・助かった」是が世に言う・岡山の大空襲で有ります。一メートルそこそこの細い溝が私共母子三人の命を守ってくれたのです、姉達三人も無事でした。煙と煤で真っ黒に成った顔を見合わせた時、暫くは本当に言葉も出ませんでした。雨がふりだしました、ともかく里の興除村へ帰ろう・・と宇野線大元駅に向かって歩き始めました。道路には傷を負うた人々が犇めき・呻いて居りました。牛が真っ黒に成ってぶすぶすと燻って居りました。本当に戦争は惨めです。長い順番を待ってやっと罹災者専用列車に乗る事が出来ました。妹尾駅に着いたとき、やれやれ帰れたと気が緩み、へたり込んで仕舞いました。  その後八月六日には広島・八月九日には長崎に原爆が投下され、死の灰が降り、街は全滅しました。八月十五日天皇陛下の玉音放送で終戦と成り、敗戦国となったのであります。様々なデマが飛び、なにを信じて良いか分かりませんでした。昭和の乱気流に巻き込まれた者のみが知る、恐ろしい体験でありました。

 その翌年(昭和二十一年)四月もう帰らないものと諦めていた、夫が復員して来ました、夢ではない、夫が帰って来たのです、子供等の父が帰ったのです。極度の栄養失調とマラリアで、それは哀れな姿でありました、持って帰った荷物の中に、汗と泥に塗れた千人針の腹巻を見つけた時は涙が止まりませんでした。その後マラリアに依る熱発は毎日続き、家中の布団全部をかぶせ、家族一同が押さえつけてもブルブルと激しい震えは止まりませんでした。しかし日が経つに連れて体調も次第に回復しました。そうなるとジッとしてはおられません、戦後の生活が待って居りました。豊中市服部の興法寺の離れを借りて住むこととなり、親子四人、何も無い部屋に落ち着いたときは、しみじみと幸せを感じました。
 戦争に明け暮れた時代ではありましたが、その間の忍耐と耐乏の生活はみにしみ付き、少しの事にも挫けない心となりました。不幸中の幸いだと思って今日も暮らして居ります。

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