落葉松亭・表紙へ
このページは岡山市在住の塩出重臣様(1929-- )に寄稿していただきました。著者プロフィール

私の昭和    目次
1 生い立ち

2 子供の頃 3 中学校へ 4 空への憧れ、予科練へ 5 厳しい軍隊生活
6 実施部隊 東京通信隊 7 終戦 8 復員 9 追憶
著者プロフィール(山陽新聞 2018/04/23 コラム「つなぐ 戦後73年」より)
15歳 命投げ出す覚悟

「もう帰れない」と死を覚悟した少年時代を
思い出す塩出重臣さん。
予科練を経て海軍通信隊に所属した。

 「戦争に勝つためには、若者が命を投げ出して戦わないといけない。そう信じていた」塩出重臣さんが死を覚悟していた少年時代を思い起こした。
「今、考えると、ばかなことを…。まさに洗脳されていた」戦闘機に乗り、敵機を次々と撃ち落とすパイロットに憧れた。
 1944年、養成部門の飛行予科練を志願した。15歳だった。
 予科練の身体検査。体重を少しでも重くしようと、直前に水を腹いっぱい飲んだ。胸囲も大きくするため、吸い込んだ息を吐き切らずに止め、測定に臨んだことを覚えている。「いい体格に見せて何が何でも合格したかったから」
 そのかいあってか合格通知が届き、44年11月、防府海軍通信学校(山口県防府市)の予科練に入った。操縦士への道となる飛行予科練ではなかったが、国のため、天皇陛下のためにと心新たにした。
 村を挙げた壮行会があり、妹尾駅(岡山市)では万歳で送り出された。戦況の悪化は感じていた。「生きて帰ってくることはない」と覚悟していた。

 予科練ではモールス信号の送受信訓練に明け暮れた。冬は上半身裸で練兵場を走らされた。誰かが訓練で失敗すると、時に「全体責任」としてみんなが尻を棒でたたかれた。
 潜水艇で敵艦に突撃する特攻隊の募集があった。人間魚雷だ。「覚 悟の上で応募しなさい」と上官の班長から告げられた。決意の固さを伝えようと、班長の寝床に忍び込み「ぜひ、行かせてくれ」と訴えた。選ばれず、悔しかった。

 終戦約1ヵ月前の1945年7月、通信隊の本部・東京海軍通信隊勤務 が決まり、分遣隊が置かれた川崎市に向かった。汽車で向かう途中、 岡山市、東京をはじめ、空襲による焼け野原を目の当たりにし、緊張 感が増した。
 通信業務に従事し、8月15日の終戦を迎えた。鬼畜米英と教わってきただけに「殺されるか、運がよくても強制労働を科される」と一時は心配した。残務処理を終え、10月、古里への帰途に就いた。

 「ただいま帰りました⊥。自宅玄関先で父に敬礼した。軍隊精神は抜けていなかった。「おせ(大人)らしゅうなったのう。ご苦労じゃった」。そう褒めてくれた父の言葉が忘れられない。
 46年夏になり、フィリピンに出征していた兄が戦死したとの知らせが届いた。防府にいた際、兄も防府にいたと兄の友人から聞かされ。兄弟とはいえ、軍の機密として所属先を知るすべはなかった。会えていたかもしれないと思うと、悲しさが込み上げた。

 死ぬ気で過ごした約1年の軍隊生活。「艱難辛苦に打ち勝った。それでも、戦争はしちゃいけん。戦争を知っているからこそ言えることだ」。少年を戦争に駆り出す時代が二度と来ないことを願い、語気を強めた。
(平田知也)

1 生い立ち

 私は昭和4年(1929年)に生まれました。小学生3年生の時、お母さんが43歳の 若さでこの世を去りました。
 4年生までは21歳の姉がいましたが、3学期の頃お嫁に行きました。 5年生、6年生の2年間は、父と5歳年下の弟と3人暮らしでしたが中学校に入学する頃父が再婚して新しいお母さんが来ました。

 中学校3年生のとき海軍に志願して、1年ほどの厳しい軍隊生活を体験しました。終戦後、縁あっておじさんの家へ養子に行きました(現在の住所) 。 一男一女をもうけ、農業に勤しんでいましたが、昭和36年頃、小さな工場を建て妻と二人で繊維関係の仕事を始めました。
 農業収入と、新しく始めた仕事の収入でどうにか生活も安定しました。繊維関係の仕事を37年間続けて68歳になった頃、ボツボツ体力の限界を感じ後ろ髪を惹かれる思いでその仕事をやめ、現在はわずばかりの雑収入、農業収入で細々と暮らしています。

 仕事をやめた後、手持ち無沙汰に困り果て、不安に駆られながらパソコンを始めました。少しづつ慣れてきて、今では私の無聊を慰めてくれる最良の友達になりました。
 趣味と言えば海外旅行が好きですが、金との絡みもありますので思うように果たせません。
 そのほかにも障害者のボランティアを続けていますが、その人たちの将来を周囲の人はやさしく見守ってあげなくてはと、つくづく感じています。
 また私にはメル友をはじめ大勢の気の置けない友達が居ます。その人たちといろいろ話し合い、楽しむことを人生のよりどころにしています。


2 子供の頃

※ 文中の正太は私がモデルです
【小学生時代】

 彼の家は、昔、海だったところの干拓地に、80年ほど前、先祖が入植して農業を営んでいる。
 家族は、父と1年生の弟と正太の3人暮らしで、母は彼が小学校3年生のとき大腸がんで亡くなった。身内の5・6人の人に看取られて、夜中の2時頃逝ったのだが、眠っていた彼も起こされて最後の別れをした。そのときの苦しそうな母の表情は、今でも脳裏に焼き付いて離れない。

 四年生の3学期までは嫁入り前のお姉さんが 日常の世話をしてくれたが、やがて縁あって嫁いで行き、それ以後小学校を卒業 するまで、父、弟と3人暮らしの生活が続いた。

 正太は東疇国民学校6年生。今日も授業を終えて大好きな「少年クラブ読みながら1キロあまりの道のりを学校から家へ帰ってくる。道の両側には5月と言う陽気もあって、タンポポの花があちこち咲き、れんげの花もチラホラ見える。青々と伸びた麦田 の片隅では、農家の人が苗代の準備に忙しそうく働いている。正太は、そんな光景には目もくれず、しばらく読んでは立ち止まり、また思い出したように歩き出して、1時間ほど歩いてやっと家にたどり着くのである。立て付けの悪い、裏口の木戸をガラガラと開けて、薄暗い家の中へ入り、しばらくして目が慣れると、先に学校から帰った弟が、座敷の上がり口に鞄を投げ出したまま遊びに出かけている。

 母が死んでから、父は今まで耕作していた1町歩余りの田んぼを、近所の農家に作ってもらい、農会(今の農協)に勤め出した。4年生の終わり頃まで8歳年上の姉がいて、いろいろ身の回りの事や食事の面倒を見てくれたが、やがて縁あって20キロほど離れた町のサラリーマンに嫁いでいった。その後は6年生の終わりまで女気なしの3人暮らしで、父が毎朝飯を炊いて食べさしてくれた。朝ご飯を食べ終わると、正太は急いでアルミの弁当箱に飯を詰め、おかずには沢庵か梅干を入れて弟と2人分の弁当をつくり、そして、近所の友達を誘って学校に行く毎日だった。

 そんな生活を送っていると、近所の人達からかわいそうだと言はれるのだが、彼はそれほど辛いとは思わなかった。時々、まだ父が帰ってこない夕方頃、隣のおばさんが、「正ちゃん今晩のおかずはあるのか? これをおたべ」と芋の煮たものとか、川で取れた鮒の焼いたものとかを持ってきてくれて、「おまえ達はかわいそうだなぁ・・ お母さんが早く死んでしまって」と悲しそうな顔をしてくれるのだが、でも子供のことだから、そんなに大人が思っているほど寂しいとは感じない。それよりも、おいしそうなおかずを、弟と一緒に早く食べたい気持ちのほうが先走るのである。

【淳ちゃんとうなぎ釣り】

 今日も6時間の授業を終えて、学校から帰ってきた。早く帰った弟はもう遊びに出かけている。投げ出してある鞄の横に座り、帰りながら読み続けていた連載物の「少年探偵団」を30分ほどで読み終えると、やおら立ち上がって、物置の隅においてあったアップルジュースの空き瓶を持ち出し、隣の淳ちゃんの家に出かけた。
 淳ちゃんは正太より一つ年下の5年生で、大の仲良しである。家は100メートルほど離れているが、それでも、その間に1軒も家が無いので、一番近い隣なのだ。淳ちゃんの家族は、祖父母とお父さんお母さんと、兄弟3人のにぎやかな家庭だ。それは正太には少し羨ましい気もするのだが・・・
 これから二人は愉しい遊びの、うなぎ釣りの段取りをするのである。この遊びは子供達の間では"投げ針"と呼ばれ、その”投げ針”の仕掛けは、20センチほどの竹串に3メートルほどの糸の先へ針がついている。そのような仕掛けをうなぎ釣りのシーズンが始まる4月頃までに,30組ほど拵えて待っているのだ。その"投げ針"に雨蛙を餌にして(まだ雨蛙が土の中から出ていない時期には、ミミズを掘って餌にする。
 持ってきたアップルジュースの空き瓶は、捕まえた雨蛙を入れる為だ)近くの用水路に5メートル間隔ぐらいに投げ込み、翌朝その30組ほどの"投げ針"を揚げに行く。多い日には5~6匹のうなぎが釣れていることもあるが1匹も釣れないことのほうが多い。それでも子供達は、明日は釣れる、あさってこそは釣れると楽しみにしながら、5月末頃までこの遊びを毎日続けるのだ。

 淳ちゃんは正太の来るのを待っていた。
「正ちゃん今まで何をしとったん? おれはずうーっと待っていたんよ」
「すまん、すまん。学校から帰って、それまで読んでいた本の続きを読んでいたら、遅くなったんだよ」
「ふーん・・。正ちゃん、今日はどの辺りへ蛙を取りに行ったらええかなぁ」
「そうだなー。土手の下に草がたくさん生えている、おれの家の畑へ行ってみよう。あそこならたくさんいると思うよ」
「でもあの畑はこの前行った時、蛇がいたから恐ろしいよ。何処か他のところにしようよ」
「大丈夫、大丈夫。今日はいないよ。もしいたら、おれが捕まえて皮をひき剥いでやらぁ」
正太は怖がる淳ちゃんをなだめながら、小瓶を持って畑の草むらに分け入ってみると、あちこちから雨蛙がぴょんぴょん飛び出した。急いで捕まえては瓶に入れ、瓶を持つ片手の親指で栓をしてはまた捕まえ、30分ほどで二人それぞれ50匹ほど捕った。淳ちゃんは、もう蛇のことは忘れていたらしい。

「もうこれ位でよかろう」二人はそう言いながら、あま蛙を持ち帰るのだが、これから大変な作業が待っている。蛙をそのまま針に刺すだけでは"投げ針"を川に投げ込んだとき、まだ生きていて、泳ぎ回って川底に沈んでくれないので1匹ずつ瓶から取り出し、地面に投げつけて殺さなければいけない。「かわいそうだなア-」と言いながらも、この作業はどうしてもやらなければいけないのだ。
こうして餌のあま蛙を針に刺し
「今日はどこへつけたら(漬ける。川へ"投げ針"を投げ込むこと)ええかなー」
「そうじゃなー。昨日おれの家の裏の川へつけたから今日は淳ちゃんとこの前の川へつよう」
「でも、あそこは一昨日全然釣れなかったところだよ。その前の川にしよう」「じゃあそうするか」
話が決まって、目当ての川までたどり着いた。

「今日は誰が先につけるかなー。淳ちゃんお前先につけろよ」
「昨日は正ちゃんが先だったからなぁ」川幅は6メートル程で、淳ちゃんは岸に"投げ針"の竹の部分を差込み、蛙のついた糸をポーンと投げ込むと、餌は静かに沈んでいく。
淳ちゃんがつけると、正太はそこから10歩あるいた位置に同じようにつけ、次は淳ちゃんが10歩あるいた地点というようにして、それぞれ30組の"投げ針"をつけ終わった。
「淳ちゃん、明日の朝は5時半頃淳ちゃんの家へ行くから起きといてよ」
「うん。そのころには起きて待っている。明日はたくさん釣れるだろうか?」
「今晩は暖かいし、明日は絶対に5匹は釣れるだろう。おれのほうが、淳ちゃんより餌のつけ方が良かったから、たくさん釣れるかも知れん」正太と淳ちゃんは、明朝の愉しい光景を頭に描きながら、薄暗くなりかけた田んぼ道を、家路へ急ぐのである。

【弟と二人で楽しい夕ご飯】

 帰ってみると、弟が遊び疲れた姿で家の中でしょんぼり立っている。いつもは一緒に"投げ針"をつけに行くのだが、今日は学校から帰って別々に遊んだので、家に帰るのも別々になった。
「兄ちゃん何処へ行とったん。ぼくは寂しかったよ」
「そうか、そうか。おれが学校から帰った時、おまえが居なかったから、そのまま”投げ針”をつけに行ったんよ。明日はわしが帰るまで家に居ろよ」
「うん・・・僕は帰ってすぐ健ちゃんのところへ行って、かくれんぼをして遊んだんだよ。僕が鬼になって健ちゃんをいくら探しても見つからなくて...」弟は、大変困った顔をして話しかけてくる。 「それでどうした?」
「健ちゃーんと3回呼んだら、田んぼの麦の中から『ここだよ』と言って出てきたんだよ」
「そんなところで遊んでいると、麦が倒れるから、健ちゃんの家の人に怒られただろう」
「うん。おじさんにはげしく怒られた。でもおばさんが後で飴玉をくれたよ」
「ふーん。そりゃあよかったなー。でも、もう田んぼの中へ入って遊んでは駄目だぞ」
「うん・・・・・」
しばらく二人でそんな会話を交わしていると、「それより僕は腹が減ったよ」と弟が言い出した。
「もう7時前だなー。お父さんはまだ帰らないし、じゃーご飯を食べるか。でも、おかずがないなぁー」ちょっと考えてみたが、答えはいつも同じなのだ。たまには朝、お父さんの作ってくれたおかずが残っている事もあるが、沢庵か梅干をおかずにして、ご飯を食べる日がほとんどだった。


「よーし、今日はご馳走を作ってやるぞ。待ってろよ」彼は、土間の隅にある漬物だるの中から沢庵を取り出し、まな板の上でなれた手つきでトントンと切り、皿に盛り付けた。
「そーら、今日はご馳走だぞ」
「なーんだまた沢庵か、昨日も沢庵今日も沢庵では、もうあいた。なんか他のものはないのか」
「贅沢言うな、ホラ! 今日は違うだろう」正太は沢庵を三角形に切ったり、菱形に切ったりして目先を変えている。
「でも食べたら同んなじ味がするぅー」と言いながらも、二人は愉しい晩御飯を食べるのだった。
こうして正太たちが晩御飯を食べてしばらくすると、父が帰ってくるのだが、今日はまだ帰ってこない。遅い時には正太達が寝てしまって、いつ帰ったのか知らない時もたびたびあった。
「兄ちゃんお父さんは遅いなー。僕はもう眠むとうなった」
「うーん、昨日も遅かったしなー。じゃーもう寝るか」正太は押入れから布団を取り出して敷き始めた。

 いつも一つ布団に、兄弟二人は肩を並べて寝るのだ。今の時期は暖かくていいのだが、冬の夜などは、二人抱き合うようにして、寒さをこらえながら寝る時もたびたびあった。
布団に入ると、今日は誰それさんと喧嘩をしたとか、かくれんぼをして遊んだこととかを話しながら寝るのだが、いつも早く眠るのは弟のほうだった。夜中に布団から飛び出して、寒くて目がさめることも、しばしばあった。
「明日は5時半に"投げ針"をあげに行くから、寝過ごさないよう早く眠ろうな」
「兄ちゃん明日は釣れるとええなー。釣れたら晩のおかずは、うなぎが食べられるからご馳走だ。でも、多分昨日のように1匹も釣れんだろうなぁ」
「そんなことはない。明日は絶対に5匹は釣れる。今日は場所のええ所へつけたから。それに今晩は暖かいしなー」
そんな話をしているうちに、返事が返ってこないと思ったら、弟はもう軽い寝息を立てている。正太は明日の釣果が気になり少し興奮気味だったが、いつのまにか眠ってしまった。


【淳ちゃんと「投げ針」を揚げに行く】

 うなぎがつれているかな?・・・
 ぐっすり眠って目がさめ、眠い目で窓越しに外を見ると、夜が開けるのが早くなったとはいえまだ暗い。いつ帰ったのか、父も横で寝ている。弟は足を布団からはみ出しているので、そっと中へ入れてやり、隣部屋の16燭光電灯の、ぼんやりした明かり越しに柱時計を見ると、5時ちょっと過ぎている。時計の鳴る音で目が覚めたのかもしれない。少し早いかなと思いながら、弟の眠りの邪魔をしないように、そっと枕元においてある服を着て、土間にある小さな竹籠を下げ、あまり音を立てないように外に出た。ひんやりした外気に、ぶるっと軽く身震いしながら100メートルほど離れた淳ちゃんの家へ急いだ。

 軽く表の戸をトントンとたたくと、おばあさんの声がして、「淳ちゃん、正ちゃんが来たよ。早く起きなよ。正ちゃん戸を開けて中へお入り。今日は早く来たなー」と、中へ入れてくれた。しばらくすると淳ちゃんが奥から出てきた。まだ眠いらしい。
「淳ちゃん揚げに行こうよ」
淳ちゃんは眠そうな目をこすりながら、少し不機嫌な顔で「うーん...ねむたいなぁー。今日はちょっと早いんじゃあないか.? でもボツボツ行くか」二人は薄暗いたんぼ道を、獲物が釣れたら入れる小さな籠を下げて昨日の川端までやってきた。まだ夜が明けきっていないので川辺の、どの位置に"投げ針"をつけてあるか良く見えない。仕方が無いので二人は20分ほど待つことにした。
やがて空も次第に明るくなり、川辺の様子も良くわかるようになったので、二人は60個ほどつけてある"投げ針"を、一つずつ揚げ始めた。しかし何個上げても釣れてない。2/3ほどあげてもまだ1匹も釣れない。


「正ちゃん、今日も釣れないなー」淳ちゃんは不足そうにつぶやいた。
「うーん、でもまだ1/3ほど残っているからわからんよ」そうは言っても、正太も半分諦め顔になった。不安な気持ちに駆られながら残りを一つずつ揚げて、あと2個になった。
あーあ、今日もだめだったかと諦め気分になりながら、最後の"なげ針"を揚げようと近づいてみると、糸がピーンと強く張って、水の中へ引き込んでいる。
「おーっ、淳ちゃん釣れとるぞっ」思わず大声をあげ、急いで糸をひっぱてみると、手にうなぎの動きの感触がグルグルと伝わってくる。わくわくしながら揚げると、直径2センチくらいのうなぎが水の中から勢い良く跳ね上がってきた。
「ヤッター、釣れた、釣れたぁー」正太の大声に、最後の"投げ針"を揚げようとしていた淳ちゃんは、正太の所へ飛んできて「正ちゃん釣れたなー。よかったなー」と呟くように言った。

二人で"投げ針"をつけて翌日同じように釣果があれば、二人共喜んで帰るのだが、どちらかが釣れない時は、双方の気分の落差は大変なものである。しかし、それは二人とも何回も経験していることなので、諦めるのも早い。それでも今日は、淳ちゃんは正太の釣れたのが羨ましいのだ。
「うん、よかった。淳ちゃんもう1個残っているだろう。それがきっと釣れているよ。早く行って揚げてみろよ。」しかし淳ちゃんは半分諦め顔で、しょんぼりとした後姿を見せながら、最後の1個を揚げに行った。
「正ちゃん!釣れとるらしい。糸が動いているっ」淳ちゃんの弾んだ声がするので、急いで駆けつけてみると、糸がピックン、ピクツと動いている。その時正太は、これは鯰だと直感した。今までの経験だと、うなぎの場合は釣れていると、糸はピンと張っていてそのまま動かないが、鯰の場合は、縦に動いたり横に動いたりしている。このような時には、たまに鮒が釣れていたり、ごくまれに亀が釣れていることもある。

「淳ちゃんコリャー鯰だよ、きっと!」
「よーし、何が釣れいるか揚げてみよう」
淳ちゃんが勢い良く糸を手繰り寄せ揚げてみると、40センチもあろうかと思われる大鯰が釣れていて、針を口の端に引っ掛け、左に泳ぎ右に逃げようとしながら上がって来た。
「おーっ!すっげぇじゃあねえか」正太は思わず、大声を上げると
「ヤッタヤッター。こんな大きなのは始めてじゃ。こりゃーうめーぞ。帰ったらおばあさんに焼いて貰おう」惇ちゃんの顔は一度に明るくなった。
大喜びで持ってきた籠へ入れると、中で鯰が暴れて、竹籠が動くほどだった。
蓋をしっかり閉めて帰り支度をしながら、「きようは、正ちゃんにうなぎが釣れたときは、正ちゃんだけ釣れて、おれは釣れんのかと、ちょっと悲しかったが、最後に釣れて良かったよ」
「うーん、でも今日は淳ちゃんのほうが大漁だよ。わしは、あんな大きな鯰は始めて見たよ」
「わしもだよ。これをも持って帰ったら、おばあさんがびっくりするぞ!」淳ちゃんは、おばあさんっ子なので、おばあさんもきっと喜ぶ事だろう。
「正ちゃん、今日もつけような。今日はどの川がいいだろうかなー。今度は、わしはうなぎを釣ってやるぞ。絶対5匹!」淳ちゃんはうなぎと言う言葉に力を入れた。
それは子供達の間では、鯰より鰻のほうが格が上にみられているからだ。
「そうだなー、よーし、わしも絶対5匹だ!」全部の"投げ針"を揚げて、二人はそれぞれ獲物の入った籠をさげ、楽しそうに話を交わしながら帰途につく。こうして子供達の愉しいうなぎ釣りのシーズンは、5月の末頃まで続くのだった。

3 中学校へ

【中学校入学準備】

 6年生も終わりに近づいた頃、学校では進学の話が持ち沙汰されるようになった。とは言っても、現在のような切実な問題ではなく、生徒達は、進学したい学校を先生に申し出て、手続きをしてもらう程度で、ほとんどの生徒は進学のために特別に勉強することはなかった。
 正太達6年生は男女合わせて34人の小さなクラスで、女子のほうが多く、男子は14人だ。その当時は、第2次世界大戦が始まって間もない昭和17年頃で、入学試験は、筆記試験はなく「口頭試問」、いわゆる面接だけだった。そのため担任の先生は、ペーパーテストの試験勉強と言うものはほとんどさせなくて、もっぱら、その当時の一般的な常識を教えてくれた。敵国イギリスの首相、アメリカの大統領の名前とか、今、日本はどの辺で主に戦をしているか、日本の総理大臣の名前、日本の人口、また教育勅語の一部分の解釈、ときには五箇条のご誓文、軍人勅諭の五箇条まで暗記するよう教えられたが、大体当時の世相を反映したものがほとんどだった。
しかしこうして一生懸命習ったことも、正太が受験した学校の面接試験には一切出なくて、大体簡単なものが多かった。

【新しいお母さんがくる】

 その頃、正太に重大な問題が持ち上がってきた。それは卒業式を間近に控えたある日、父が「正太、お母さんが死んで、もう何年にもなるが、おまえ達もずいぶん辛い思いをしただろう。だから、お父さんは新しいお母さんを貰おうと思っているんだが...」と、言いにくそうに話し出した。
「僕はお母さんが来ないほうがいい」正太は、おそるおそる、呟くように小さな声で返事をした。何も恐れることはないのだが、「いや」と言うのが父に対して悪いような気がしたからだ。
「そんなことを言ったってお前、お母さんがいないと、お父さんは忙しくて洗濯も思うようにしてやれない。ご飯の時だって美味しいおかずも作ってやれないから、お前達も辛いだろう。だから、新しいお母さんが来たほうがいいと思うんだが」
「・・・・.」正太は嫌だと言いたいのだが、父にどうしてもそれが言えなくて黙ってしまった。そばで弟は「僕はお母さんが来たほうがいい。今まで沢庵や梅干ばかりだったが、お母さんが来たら、美味しいおかずが食べられるもん」
「そうだなァー、それが一番いい。お母さんが来たら毎日美味しいおかずを作ってくれるし、服やシャツの繕いもしてくれるからな。それに学校から帰っても、何時もお母さんがいてくれれば寂しく無くていいだろう。あのなー、もうしばらく経ったらお母さんが来るんだよ。」
 なーんだ、もう来る事が決まっているのかと、その時はちょっと寂しいような、悲しいような複雑な気持ちがしたが、それ以上のことは考えなかった。
「ふーん。何処から?」「お前も知っているだろう。三軒向こうの家のおばさんだよ」

 そーか。そう言えば家にちょくちょく来て、何くれとなく世話をしてくれる32,3才位のおばさんが居る。正太も時々そのおばさんの家に遊びに行ってお菓子をもらった事がある。でも、そのおばさんは、正太の一番大きいお兄さんとあまり年が違わないので、お姉さんのような気がして、お母さんと呼ぶのは恥ずかしいなと思った。
「あのおばさんかー、それだったらいい。僕も良く知っているし。でも、今までおばさんと呼んでいたのに、急にお母さんと呼ぶのは恥ずかしいなー」
「そうだろうけれど、今までと違って、お母さんになるのだから、お母さんと呼ばなくてはいけない」父は命令口調で言うのだが、正太にとっては大変難しい事だ。その事はお母さんが来てしばらくしても、なかなかお母さんと呼べなくて、父もはらはらしていたかもしれない。
 やっと呼べるようになったのは、1ヶ月あまりも経った頃だった。弟は、お母さんがくると言って大変喜んでいる。10日余り経って、明日は中学校の試験と言う晩に、少し早めに帰ってきた父が、「きょうは新しいお母さんが来るよ」と言いながら、台所で、普段はあまり口にしない、おいしそうな仕出しの折詰めを並べている。
 しばらくすると、「今晩は」と言う声がして、表からきれいな着物を着た新しいお母さんと、何処かで見たことがあるような、おばあさんが入ってきた。どうしてこのおばあさんが?と不思議に思ったが、この人が仲人だとわかったのは、何年も経って大人になりかけた頃だった。


【お母さんに少し気兼ねをする】

 こうして新しいお母さんも来て、中学校の試験にもなんとか合格し、家族も一人増えて、正太にとっては新しい人生が始まった。弟とは違って正太はお母さんとなかなか呼べなかったが、なんとか言えるようになり、家の中も、以前に比べて明るく賑やかになった。でもどちらかと言うと、彼は以前、家族三人だけで暮らした時のような、傍目には寂しそうとか、可哀想と言われた頃のほうが、懐かしい気がして好きだった。
 学校から帰っても、締まっている、立て付けの悪い戸をガタガタ開けて、暗い家の中へ入ることもなく、いつもお母さんがいてくれるので、それはそれなりにいいのだが、どうも他所のおばさんがいるような気がして気兼ねだった。今までだと、帰るとすぐ鞄を投げ出して、腹が減っていれば、当時はおやつらしいものは無かったが、それでも戸棚を開けたり、引出しの中を覗いたり勝手な事をしていたが、今はそういうわけにはいかない。「腹が減ったから何か無い?」とも言い難く、そのまま我慢をすることもあった。

 家へ帰ったとき、その場にお母さんがいないときには、戸棚を開けたり引出しの中を覗いたりするのだが、お母さんが帰ってくると慌ててその場を去って知らん振りをするのだ。当時貴重品だった砂糖をこっそり舐めたりもした。お母さんには時々叱られたり、それに対して口答え(反発すること)をしたり、不仲の時もあったが、そのために特別問題を起こすような事も無かった。しかし彼がまだ小さいときの様に、本当の母や姉に対するような開けっぴろげな気持ちにはなれず、絶えず何か心の中に隠されていて、それを外へ出すことができなかった。それについては、義母も同じように思っていたに違いない。

 中学校への通学は、最寄の国鉄の駅から、上級生を含め7〜8人の友達と汽車通学だった。家から1.5キロ程の道を、毎朝6時58分発の汽車に乗るため家を6時25分には出なければ間に合わない。そのためお母さんは、遅くとも5時半には起きて飯を炊かなくてはいけないので、たまには眠そうで機嫌の悪い時もあった。それでも毎朝正太を起こしてくれ、朝ご飯の支度をしてくれた。時には起こされてもなかなか起きられず、つい寝過ごし汽車に乗り遅れ学校を遅刻することもあった。


【三級滑空士の免許を取得する】

 戦争も次第に激しくなった昭和18年。2年生になった頃から彼は空へ憧れを抱くようになった。それは、当時、戦場で飛行機の活躍が華々しく伝えられ、飛行兵になることが戦に勝つこと、国難を救うことだと先生や周りの人達から教えられた。そして純真な少年達は空へ空へと希望に胸をを膨らまし、特に海軍甲種飛行予科練習生は生徒達の憧れの的だった。
 ちょうどその頃、中学校にグライダーが購入され滑空部が創設された。その時大勢の生徒が入部したが、正太も将来飛行機に乗るためにはグライダーの練習をしておけば有利だ。絶好のチャンスとばかりみんなに負けじと入部した練習は学校から6キロほど離れた広大な干拓地で行われ、1ヶ月に2~3回ほど出かけて練習に励んだ。また夏休みと春休みには干拓地の近くで合宿訓練もした。

 一機のグライダーに20人ほどの生徒がグループになって、それぞれの持ち場につき教官の指導でかわるがわる搭乗して練習をする。直径2センチ、長さ15メートルほどのゴム索を12人で引っ張った。ゴム索を引く人と搭乗して操縦する人は順番に交代しながら練習するので、1日中練習しても操縦の練習が出来るのはせいぜい3回ほどだった。練習の最初は教官が模範滑空をやって見せてくれる。高度30メートル位のところまで上昇して滑空しながら降りてくるその勇姿(正太の目にはそのように映った)は見事なものだった。自分も早くあのように上手になって、行く末は戦闘機乗りになろう。そして早く空中戦をやってみたい。子供のことだから空中戦がどのくらい恐ろしいこととは知る由もない。最初の練習の頃は30メートルほどの地上滑走をやるだけなのだが、それがたいへん怖い。正太も最初に地上滑走をやった時には、何がなんだかわからないうちに3秒ほどの滑走が終わった後、自分でも顔から血の気が引いているのが分かったくらいだ。

 そんな怖い思いをしながら搭乗回数も15~6回になると2メートルほど浮き上がって飛べるようになった。それでも最初飛び上がった瞬間は、ビルの6階くらいの高さから下を見下ろしているような感じがしたことを今でも覚えている。こうして部活に精を出し搭乗回数も75,6回を重ね操縦技術も次第に向上した頃、三級滑空士の資格を取得するチャンスがきた。その取得試験は2年生が終わった春休みに行われた。他校の生徒も含め30人くらいいただろうか。普段は操縦技術のうまい人でも、試験官の見ている前では緊張してなかなか実力を発揮することができない。高度20メートルか25メートルくらいまで上昇し、下降に移るときの操縦桿の操作が非常に難しく、途中で失速したり、下降角度がきつすぎ地上すれすれで慌てて操縦桿を引いて、機体がふぁーと浮き上がるミスを犯すのだ。なかには地上に機首を突っ込んで機体を壊す人もいたが、不思議に怪我はしなかった。

 生徒たちは次々にテストを受けていよいよ正太の番がきた。試験官に敬礼し、姓名申告と搭乗回数(その時正太は76回目だった)を告げてグライダーの座席に座りシートベルトを締めた。胸がどきどきしている。それでもグライダーに一番最初に乗った時のような恐怖感はまったくなかった。教官の「引けーっ」の号令にゴム策を持っている生徒たちは「いっちに、いっちに」と引っ張り、伸びきったと思われる時に機体の尾部を、後ろの杭にロープで絡めて止めてあるその端を一生懸命持っている生徒に「放せっ」と大声で号令する。その一瞬正太の乗っているグライダーは、勢いよく青い空に向かって吸い込まれるように飛び立っていった。

 こうして文章に表すといかにも綺麗な光景のようだが、操縦している本人はすごく緊張している。いつもだと20メートルも上昇すると干拓地の堤防の向こうに青い海が見えるのだが、今日はそんなものを見ている余裕はない。離陸して2~3秒程経って30メートルほど上昇したかなと思った時、操縦桿を3センチほど前に倒した。すると上昇していた機体はちょっと勢いが鈍ったかと思うと機首をやや下げて下降に移った。だんだん下降し地面がどんどん浮いてきて地上まで5メートルくらいのところで「よーっし、ここだ」彼は操縦桿をわずかに引くと機はスーッと水平飛行に移りやがて着地した。この間約10秒ほど。着地の瞬間ちょっと横風にあおられ流されたような気がしたが、自分ではまずまず上手く飛べたと思いながら座席から降り、試験官に「飛行終わり」の報告をしテストを終わった。他の生徒もそれぞれテスト飛行を終えたが、中には明らかに失格と思われる飛び方をする人もいて悲喜こもごもだった。

 それから2週間ほど経って学校の朝礼の際、校長先生が全校生徒の前で「先日の滑空試験で三級滑空士に合格したものの名前を発表する。名前を呼ばれたものは前に出なさい」と言われ、10人ほどの生徒が次々に呼ばれて朝礼台の前に並らび、それぞれ免許証を手渡された。正太も6番目くらいに呼ばれて「やった」と思った。があの時のテスト飛行の際、これだと合格できると言う自信はあった。三級滑空士の免許も取得し、いやがうえにも飛行機に対し憧れの気持ちが高揚している頃、生徒たちの間では予科練の話題がもちきりになっていた。当時の学校は戦時色一色で、先生たちも自分の学校から大勢の生徒に軍隊へ志願することを、上部から義務付けられていたようだった。

4 空への憧れ、予科練へ

【動機】

 私が、空へ憧れを抱き始めたのは小学校(当時は国民学校)六年生の頃だった。
日中戦争から太平洋戦争にかけて、今まであまり戦争に使われていなかった飛行機が盛んに使われ始め、その戦果が華々しく伝えられるようになった。そして役場や学校などでは、飛行服に身を包んだパイロットが飛行機の中から手を振っているポスターなどをよく見かけるようになった。
「よーし、僕は絶対に飛行兵になろう。でも万一駄目なときは戦車兵になろうかなぁー」と子供心に胸を弾ませていた。なぜ戦車兵なのかと言うと、日中戦争当時、中国の戦場で「西住」という陸軍大尉が戦車に乗って勇ましく戦っている写真を見て、そのかっこよさに惹かれた、ただそれだけだった。現在でも当時の私と同じ年齢の子供たちは、ちょっとしたきっかけで、これから歩む人生が良いほうと悪いほうに振り分けられるのではないだろうか。良いほうに展開すればいいのだが、悪いほうへ突き進んでいくと一生取り返しのつかないことになるかもしれない。周囲の大人たちはよく考えて見守ってあげなくてはいけない。私もあの頃よきアドバイザーに恵まれていたら、今よりもっと違ったよい人生が過ごせたかも知れない。(でも、今までの人生が一番よかったかも・・・)

【予科練を受験して防府海軍通信学校に入校】

 3年生になった1学期のある日、正太は父に相談した。
「お父さん、僕は予科練に志願しようと思っているんだけど」
「ふうーん...、しかし軍隊と言うところは大変厳しいところらしいぞ。お前辛抱できるか?」
父は当時、52~3歳だったが軍隊の経験は無かった。
「うん、そりゃあ辛抱するよ。今の日本は僕らのような若者が、進んで軍隊に志願して、お国のために働かなければ、戦争に負けてしまう。だから少しでも早く予科練に行って飛行機に乗り、戦に参加するんだ。僕は戦闘機に乗りたいんだ。」
父は、その時の正太の単純な考えを、どのように理解したのだろうか。当時のことだから、息子をお国のために捧げて、この国難を乗り切らなければ・・・、それが国民の義務だ位に思ったのかもしれない。でも、心の奥の何処かに、何か引っかかるものがあったに違いない。

「うーん、お前がその気なら行ってもいいが...。近所の何処の家にも若者が兵隊に行っているから、お前が行ってくれればお父さんも肩身の狭い思いをしなくてもいいのだが・・・」
その頃、父は組合長(町内会長)をしていて、近所の何処の家にも兵隊とか軍属(兵隊とは少し違うが、同じように我家を出て、軍務には携わらないが、軍隊と直接関係のある仕事、例えば軍需工場の中の特別な仕事とか、輸送船の船員、又軍隊関係の学校の教官)とかで出征しているので、その点、父も肩身の狭い思いをしていたのだろう。
父にそう言われて「うん。僕は絶対に予科練に行く。そして飛行機に乗る。そのために三級滑空士の免許を取得したのだから。しかし受験の際、胸囲と体重が少ないから身体検査ではねられるかもしれない」
「お前、学科のほうは?」
「学科のほうは大丈夫。そんなに難しい問題は出ないと思うから」
これは後のことだが、心配していたように、1次採用試験の身体検査で、胸囲と体重が少し足りなくて、測定の際、欲しくもない水を大量にがぶがぶ飲んだり、息を吸い込んで胸を膨らませたりして検査官の目をごまかすのに大変苦労した。
父の了解を得た翌日、早速先生にお願いして願書を提出した。同級生の中にはすでに予科練に合格して、松山航空隊等で軍隊生活に入っている者もいた。同じクラスで正太と一緒に願書を提出した人は5、6人いたが、今回は合格して実際に入隊した人はK君と二人だけだった。

 こうして予科練の試験は、1次試験が倉敷商業学校で、2次試験が愛媛県松山航空隊で行われたが、心配していた適性試験にもどうにか合格して、憧れの「海軍甲種飛行予科練習生」として、「防府海軍通信学校」に入隊することになる。
なぜ飛行兵志望が通信学校かと言うと、飛行兵といっても、科目が操縦・通信・整備と三つに分れていて、予科練即ちパイロットとは限らない。それぞれの適性がないと他の科にまわされ、非常に悔しい思いをさせられる人も居るわけだ。しかし、戦争も押し詰まった昭和19年頃は、十把一からげに振り当てられた感じがしないわけでもなかった。
正太も予科練と言えば必ず飛行兵になれるものと思っていたが、通信学校入校と言う通知が来たときには、ちょっと驚いた。でもまあ、どちらにしても七つボタンの制服が着られるのだ。(予科練の制服は、上着に桜と錨の模様のついたボタンが七つ付いていて、「七つボタンは桜に錨」と歌にまで歌われたものだった)とあっさり諦めた。でも、もしかして通信兵として飛行機に乗れるかも知れないと、飛行機に乗ることの淡い希望は捨てないでいたが、結局は通信学校卒業と同時に、「東京海軍通信隊」へ昭和20年7月の始めに派遣されて、終戦をそこで迎える事になる。

 若鷲の歌

   若い血潮の予科練の
   七つボタンは桜に碇
   今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ
   でっかい希望の雲がわく

 この歌にあこがれて、マインドコントロールされているとも気付かず、幼い少年たちは国のために戦に赴いたのである。


【予科練の試験を受け、採用通知が来る】

 太平洋戦争がはじまってだんだん戦局が厳しくなってくると、政府は兵力増強のために少年たちを軍隊に志願させる政策を強めてきた。それに呼応して私の通っている中学校の先生たちも、生徒に軍隊へ志願するよう盛んに話を持ちかけてきた。
 当時の中学生の間では、軍隊と言えばなんといっても「予科練」の名前で親しまれている「海軍甲種飛行予科練習生」だった。ほかにも海軍兵学校、陸軍士官学校、陸軍幼年学等あったが、それらの学校はクラスでも一握りの優秀な生徒でないと入れない学校だったので、大衆向きの予科練が一番人気があった。私も先生から薦められ、お国のために働くのはこのときとばかり、喜び勇んで予科練の試験を受けることにした。
 第一次試験は昭和19年5月か6月頃、私たちの地域の受験者は岡山県立倉敷商業学校で行われた。私は体が貧弱なために、身体検査で不合格になるかも知れない。特に体重と胸囲が足りないのである。そこで体重計に上がる前に水を飲んだ。欲しくもないのにがぶがぶと、本当に苦しいほど飲んだ。裸になってみると腹がプーッと膨らんでいたので、バレルかもしれないと思いながら恐る恐る秤に上がった。その時の体重は忘れたが、おそらくギリギリの線で合格したと思う。

 つぎは胸囲である。係りの人がメジャーを胸に巻いて、
「息を吸い込んでェー、ハーイ吐いてェー」と言われ、いっぱい息を吸い込んで胸が膨れたとき息を少し吐いて、そのままぐっと止めて計ってくれるのを待った。
「72センチ、合格!」
と言われた途端にすいこんでいた息をフーッと吐いた。すると係官が
「なぜ大きな息をするのだ?」と不審顔で私を見たので
「しまったーバレたか」と一瞬ドキッとしたが、それ以上何も言われることなく無事に終わった。あの時、ばれていたら、私は軍隊生活の経験はなかったかも知れない。

 こうして身体検査に何とか合格して、次は学科試験だ。これもあまり自信はなかったのだが、どうにか無事に終え、数日たって第一次試験の合格通知が届いた。
 第二次試験は愛媛県松山航空隊で行われた。この時は適性検査(飛行兵の適正)が主で、航空隊に一泊か二泊して食卓番などやらされ、軍隊生活の片鱗を体験した。
 この試験が終わって、採用通知が届いたのは9月末頃だった。その頃私たちの中学校3年生は倉敷市にある「三菱重工水島航空機製作所」に学徒動員で当時「G4」と言われていた海軍一式陸上攻撃機の生産に就労していた。そこの寮まで父が20キロほどの道のりを自転車で知らせに来てくれた。
「ヤッタ!これで予科練へ行けるぞ」と、周りにいた友達に有頂天になって吹聴したことを覚えている。

【見送りを受けて少年は少し寂しくなった】

 11月14日、今日はいよいよ晴れの門出だ。大勢の地域の人たちが小学校の校庭で盛大な壮行式を挙行してくれた。式にあたって校長先生をはじめ、各種団体の代表の人たちから丁重な送別の言葉をいただき、式の最後に私が答辞を陳べることになった。前日父が教えてくれた文句を思い出しながら陳べていると、最前列に並んでいた婦人会のおばさんの一人が、目から大粒の涙をポロポロと落としてくれた。
 それはそうだろう。まだ15歳になったばかりの、わが子と同じくらいの幼い子供が戦争に行って死んでしまうのかと思えば、感無量になるのは推して計るべしだろう。その光景を目の当たりにした途端、こちらも熱いものがこみ上げてきて目の前がかすみ、こぼれ落ちるものをやっとの思いでこらえた。
 午前中に壮行式が終わっていったん家に帰り、夕方改めて出発するためにいろいろな準備を整えていた時、ふと、あの時おばさんが涙を流してくれた光景が目に浮かび、急に寂しくなった。これから兵隊となって軍隊に入隊するのだが、現在の戦況からして再び故郷へ帰ってくることはできないだろう。自分は近いうちに死ぬんだ。死ぬと言うことはどういう事なんだろうか。
「しまった。これは大変なことをした。僕は行きたくない」と...少年は急に暗示から解き放たれたような気分になって、考え込んでしまった。

【私の秘密】

 午後5時頃、家の者や近所の10人ほどの人たちに見送られて、最寄の国鉄の駅まで歩いて出発したのだが、ここで私は今まで誰にも話したことがない秘密を明かすことにする。
 私は小学校の同級生にMちゃんという可愛い女の子がいた。その人になんとなく好意を持ち始めたのが小学校2年生の頃で、始めのうちは仲良く話をしたり遊んだりしていた。ある日2時間目の体操の時間が終わり、運動場から教室に入ってきて隣同士の席についた。色々雑談を交わしているうちに、私はシャツの袖をまくり彼女の目の前に差し出して「Mちゃん僕の腕は太いだろう」と言うと
「どれどれどのくらい太い?」と言いながら私の手首を握って
「ふーん、太いなー。今度は私の手も見て」と彼女も手首を私の目の前に差し出した。
「Mちゃんの手は細いなー。僕は細い手の人が好きじゃ」
私はそう言いながらそーっと彼女の手首を握った。そのとき私の小さな胸は子供の癖になんだかどきどきして、それからはMちゃんが好きだと思うようになった。
 二人は5年生の頃から、どちらからともなく意識し始めて顔が合っても次第に話をしなくなった。それでも彼女の気持ちを自分に惹きつけたい一心で、他の男子生徒が彼女と親しげに話をしていると、やきもちを焼いたりしたこともあった。
中学校へ通うようになっても彼女を思う気持ちは全く変わらず、学校から帰る途中下車した国鉄の駅近くで時々顔を合わせる事があったが、お互いに何も言わず下を向いてすれ違うのみだった。(彼女も女学校通学に私と同じ駅を利用していた)

 しかし劇的な場面が展開される事になった。
その彼女が、私が大勢の人に見送られて駅近くまできたとき、偶然にも向こうから自転車で帰ってくるではないか。わが故郷も、もうこれが最後かと悲壮な覚悟で出発している際に、神様の悪戯か意中の人に出会うとは!
 本当にびっくりした。だんだん近づいてすれ違った時、私は彼女の顔を見た。少し笑ってくれたような気がしたので、ああ・・・私の気持ちを察してくれた。よかった。ゆっくり話がしたい。いろいろな事が瞬時に頭の中を、ぐるぐると走馬灯のようによぎった。
しかし、無常にも二人はすれ違ったままだんだん離れていった。

 この出来事は軍隊に籍を置いている間中思い続けていた。終戦後十数年経ってその人と会う機会があり、さりげなくあの時の事を尋ねてみると
「ふーん・・そんなことがあった?」
何と言うことだ!、じゃああの時は一体なんだったのか。こちらを向いて笑ってくれたではないか。一生懸命思い続けた自分がかわいそうになった。でも彼女は、本当は覚えているのだ。そう顔に書いてある・・・。半世紀以上も昔の話である。つまらない想いを長い間胸に秘めていたものだ。
厳しい予科練時代は次のページに記すこととする。

5 厳しい軍隊生活

【防府海軍通信学校入校】

 みんなの万歳の声に送られて駅を出発し、山陽線岡山駅を午後10時頃の列車に乗った。乗ってみると、私と同じように防府海軍通信学校へ入学する人達が関西方面から大勢乗車していた。あの時は我々のための貸切り列車ではなかっただろうか。車中のことは記憶が定かでない。
 翌日昼頃防府市三田尻駅に着いて見ると、一緒に入校する人の多さに驚いた。千数百人はいたのではなかろうか。(もっと多くて約2.400人)
 迎えに来ていた下士官たちの案内で5〜6キロの道を歩いて校門に到着した。
 まず驚いたのは大変大きな学校だ。今まで通学していた中学校は生徒数650人のあまり大きくない学校だったが、この通信学校はその15倍ほどの大きさだ。ここで8ヶ月ほどの厳しい訓練が待っていたのだ。

【厳しい軍隊生活の始まり】

 軍隊生活の厳しさは想像してはいたが、その想像を絶するような厳しい卒業までの8ヶ月だった。
 学校に到着すると案内された兵舎は、練兵上の南側の塩田を干拓して作った新しいバラック建ての兵舎だった。(南校舎と言われていた)一棟に2分隊(1分隊150名)ずつ入り、2棟ずつ南北に16棟の建物(総勢2400人収容)が建っていた。私たちは一番前の左側の兵舎で(223分隊、224分隊合計300人)、私は223分隊に属した。真ん中に仕切り壁があり、隣が224分隊で主に台湾、沖縄方面からきた人たちだった。こうして我々223分隊150名は一部屋で来年7月に卒業するまで、寝食を共にし一つ釜の飯を食った仲間であった。(卒業して半世紀以上たった平成3年、同期の池田辰二氏の献身的な努力によってほとんどの皆さんの消息が分かり、それ以来本年まで(平成16年)14年間毎年1回同窓会を開いている)

 早速分隊、班、卓に分けられ、前述の如く223分隊に所属し、3班、6卓に配せられた。そしていろいろな官給品をあてがわれた。その中には夢にまで見た七つボタンのついた黒い制服と(第一種軍装)、夏用の真っ白な制服(第二種軍装)、碇の帽章がついた軍帽等があって、予科練の実感をいやが上にも掻き立ててくれた。
 最初の夜は寒かった。(この程度の寒さはまだまだ序の口なのだが)岡山で11月中旬と言えばまだ寒いと言うほどでもないのだが、防府と言うところはほんとに寒いところだとつくづく思った。
 就寝の前に各自寝具を渡された。一番下に敷く藁布団一枚、その上に敷く綿布団(厚さ3センチくらい)一枚、それと毛布が二枚。これだけでは寒いだろうなと思いながら眠っていると、案の定、夜半頃からしんしん冷えてきて寒くて眠れないようになった。こりゃあ明日は班長にお願いして毛布を2枚ほど余分に貰わねば、と思いながら眠れぬままに夜明けを待った。

 翌日の晩、二班班長の鈴木教員に「夜寒くて眠れないので、毛布を余分に二枚ほどいただけませんか」と恐る恐る申し出た。すると、
「馬鹿野郎貴様! ここをどこだと思っているんだ。娑婆じゃあないんだぞ。困苦欠乏(この言葉は今でもはっきり覚えている)に耐えていくのが軍人だ。贅沢言うな」と、途端に大きな雷が落ちてきた。
 そりゃそうだろう。軍隊と言う厳しい団体の中で、個人の特別な欲望を叶えてくれるはずがないのだが、そこはやはりまだ十五歳の子供だ。家庭にいるときは、腹が減ったとか寒いとか、体の具合が悪いとか生理的な欲望はすぐ満たされて当然だったので、寒いと言えば毛布の一枚や二枚はすぐ支給してくれるものと安易な気持ちだった。
 それ以後は、寝床の中へ入る際には上着とズボンだけ脱いで、何枚も着ている下着はそのままで眠ってしまった。ひどいときには靴下も履いたままで寝た。

 一ヶ月ほど経って寒さが次第に増してきた頃、毛布が一枚余分に配られ全部で三枚になったが、それでも寒くてぐっすり眠ることはできなかった。そのうちに誰が考えたのか、仲のよい者同士三人一緒に寝るようになった。そうすれば毛布は九枚になるし、お互いの体温で温めあいながら眠ることができるので、昼間の疲れも手伝ってぐっすり眠れるようになった。

【始めて見た虱】

 新兵教育も終わりに近づいた12月末頃、シラミがいると言う噂が出始めた。
「シラミはどんな形をしているのだろうか。ノミとよく似ている虫だろうか」位の知識しかなかった。
 ある日、昼休みのときだったか、靴下の中で何かモゾモゾするので、脱いで見ると、ノミより少し大きい白い虫が蠢いている。すばやく捕まえて見ると、畑の野菜に寄生する「アブラ虫」によく似ている。隣にいた同僚に尋ねると
「お前そりゃシラミじゃよ。お前にもおるのか。わしもおって時々痒いんよ。シャツを脱いでみい。まだおるかも知れんぞ」
「エーッこれがシラミか、案外かわいいのォ」と言いながらシャツを脱いで縫い目のあたりを探して見ていると、いるいる可愛いのが二匹並んで這っている。でも、ノミのようにすばやく跳んで逃げないので簡単に捕まる。
 そんな調子で、そのとき初めてシラミを見たのだが、やがて一ヶ月ほど経つと大発生してみんな大変悩まされることになった。

 時々学校の行事で「吸血中撲滅週間」というのがあって、暖かい日にはみんな裸になって一生懸命シラミを捕ったものだ。歌にまで歌われた予科練が、シラミ捕りとはなんとも情けない話だ。
 余談になるが私が覚えている漢詩の中に、シラミを題材にした詩があるのでご紹介しよう。作者は「宋」の宰相で、侵略してきた「元」のために大変な困難に遭遇し、ついに捕われの身となり、処刑された有名な「文天祥」だ。

 シラミ(蝨) 文 天祥 (1236 ― 1282)
痛哭辞京蕨 痛哭して京蕨(けいけつ)を辞し
微行訪海門 微行して海門を訪う
久無鶏可聴 久しく鶏の聴く可きなく
新有蝨堪捫 新たに蝨の捫む(つまむ)に堪えたるあり
白髪応多長 白髪応(まさ)に多くの長びたるべし
蒼頭少有存 蒼頭(そうとう)存する有ること少なし
但令身未死 但(た)だ身をして未だ死せざるしむれば
随力報乾坤 力に随いて乾坤に報いん
 大体の意味は次の通りである。悲痛な涙と共に宮廷の門に別れを告げ、見え隠れに逃れて海岸にたどり着いた。希望の象徴である夜明け、それを告げる一番鶏の声とは無縁の絶望の日が続いた。ある日、今まで見たことがなかった蝨が大発生した。それを、たっぷりとひねりつぶさねばならぬほど体中を這い回るのには閉口する。長い逃避行で白髪もきっと増えたに違いない。連れてきた従僕も今も生き残ってついてくる者はほとんどいない。ただこの身に生命ある限り、天地がわが身を育んだくれた恩恵に思う存分報いよう。という意味である。
 詩によると、文天祥も初めてシラミを見て、その数多くのシラミをひねりつぶすのに大変苦労したようである。この詩は、彼が都、臨安(杭州)に迫った侵略軍「元」の陣営に使節として単身で乗り込み、捕らえられて北方に護送されるが、京口(江蘇省「鎮江」)まで来て時期を見て脱出に成功する。その逃避行途中の作である。
 私達がシャツを脱いではシラミを爪でつぶしたあの光景と同じように、文天祥も、痒い痒いと言いながら血を吸って丸くなっているシラミを追いまわしていたのかと思えば、なんとなく微笑ましく親しみを覚えるものである。

【楽しかった日曜日】

 日曜日は全員自由行動なので、洗濯をしたり衣類の繕いをした。
一番よく繕いをしたものは靴下だった。入校したとき六か月分として6足貰ったのだが、今のように強い繊維ではなく、綿とスフの混紡糸で編んだもので、四、五日も履くとすぐ大きな穴が開いてしまうので繕うのが大変だった。それについて面白い話があるので紹介しよう。
 ある日、親友の中山達郎さんの元へ家から小包が届いた。開けてみるといろいろな物の中から「しゃもじ」が出てきた。
「しゃもじ」を何に使うつもりで送ってもらったのかなあと思って尋ねると「つぐ物(繕ぐもの)を送ってくれと頼んだら、こんなものを送ってきた」
とブツブツ言っている。何のことかよく分からないのでよくよく尋ねてみると、「つぐ物」というのは、彼にとっては衣類を繕う時に、当てにする布のことであったのだが、家の者は「つぐ物」とは、飯を盛る「しゃもじ」と勘違いをしたらしい。家の者にしても軍隊でどうして「しゃもじ」が要るのだろうかと不思議に思ったに違いない。中山さんに遭うことがあったら、あの時の事をもう一度尋ねてみたい。

 また、日曜日には仲のよい者同志で散髪をしあった。わたしは安田富秀さん(倉敷市在住)と、よくペアを組んだ。ある日私が先にやってもらい、さっぱりした気分になり、交代して彼の散髪をはじめた。髪を刈るのが終わって髭剃りにかかったとき、誤って耳の下を少し切ってしまった。あっと思ったが、彼は痛いともなんともいわないのでそのまま続けていると、今度はかなり深く切って血がたらたらと流れ出した。
「痛い!」「アッ悪い悪い。でもたいしたことはない」
というような調子でその場は済んだのだが、その後、卒業するまで何かにかこつけては、「顔を切られた」と言われた。
 五十年を経て再会したとき、そのことを話してお詫びをすると
「そんな事があったかのォー。わしゃーぜんぜん覚えとらん」
覚えてなかったのなら言わなければよかった。でも、本当は覚えていたのかもしれない。

【腹が減ったのォー】

 予科練に入って一番辛かったのは、何よりも腹が減ることだったろう。常に空腹の状態なので、お互いに話題と言えば食べ物のことが一番になる。
 たまの日曜日などは、家にいた頃はおいしいご馳走を食べたとか、ぜんざいの話とか、うどん、饅頭、等々おいしい食べ物の話などしゃべりながら、おなかを空かせた少年たちはひと時を過ごすのだった。山時敬一さん(山口県出身)の家は饅頭の製造をしていたらしい。栗饅頭や薄皮饅頭などいろいろな饅頭の作り方の話を聞かされた。
 毎日空き腹を抱えた練習生にとって、一番楽しかったのはなんと言っても食事の時間だった。
 いろいろな食事メニューがあったが、私の記憶に残っているのは、ご飯は麦が半分位かそれ以上で、量は家庭で使う普通の飯茶碗に二杯くらい、おかずは、魚、肉、野菜といろいろあったが、特に印象に残ったものは、「フカ(鱶)汁」、野菜の入った「すまし汁」、春の頃は「筍の煮付け」、「蕗の汁」、この「蕗の汁」は、汁の中へ蕗の軸(普通に食べるところ)と葉っぱをそのまま入れて煮ているので、アクが出て汁が真っ黒になっている。それでも腹が減っているものだから、苦いのを我慢してごくごく飲んだ。中でも「すまし汁」は、「防通校のすまし汁」と言われ、卒業して東京通信隊に派遣された際、隊内でもその名は有名であった。どうして有名なのかよく分からなかったが、多分、汁の中へ野菜が少しだけ泳ぐように入っていて、ぜんぜん美味しくなかったからではなかろうか。

 楽しい食事も、当時のわれわれにとっては、とても空腹を満たすほどの量ではなく、食事が終わっても満腹感を味わえるものではなかった。
 少し横道に逸れたが、私たちは毎夜不寝番に立たねばならなかった。2名ずつ2時間交代で朝6時まで立つことになっている。(この辺はちょっと記憶が定かでない)そして、その人たちには雑炊の特配があった。この特配の雑炊についてエピソードがある。
 Sさんの不寝番の時間帯は10時から12時までだった。もちろんSさんは雑炊が食べられるので悦に入っている。そしてSさんの次に立つ人がTさん。このTさんはどうも不寝番に立ちたくないらしい。そこでSさんが「それでは、おれに夜食の雑炊をくれるのだったら、お前の時間帯もおれが立ってやる」
 Sさんは雑炊を二人前食べるらしい。話が成立してSさんはTさんの雑炊を12時頃食べようと思い、窓際の棚においてある食器箱の中に入れて、不寝番に立つために出て行った。その光景を横でじーっと見ていた(このあたりは私の想像)Kさんが11時頃そーっと寝間から抜き出て、Sさんの雑炊を食べてしまった。そんなこととは露ほども知らないSさんは、12時頃楽しみにしていたものを食べようと思い、食器箱のふたを開けてみると中は空っぽになっていて、一枚の紙切れが出てきた。紙面には次のような文句が書かれていた。

「雑炊のために、二直(2回不寝番に立つこと)とはこれ如何に。K」

 翌日そのことをSさんからくどくど聞かされた。そして、Kさんにさかんに文句を言っていたが、Kさんは風にススキがなびく様にぜんぜん反応せず、知らん振りを決め込んでいた。
「美味しいものは宵に食え」と言う諺があるが、もう少し早く食べておけばよかったなあ・・Sさん。

【休日の演芸会】

 休日には時々分隊内で演芸会が催された。演芸会と言えば一番に思い出すのが松尾司郎さんである。彼は凍傷で手や足をいためて包帯をぐるぐる巻いていたが、それでも、演芸会毎に痛い足を引きずりながらいろいろな芸を疲労してくれた。中でも印象に残っているのが「蝦蟇の油売り」、「安木節の踊り」などである。特に「蝦蟇の油売り」は大変名調子だった。
 その他にもよく出演しておられた人5~6名の顔ぶれが目に浮かぶが、勇さんの歌で思い出すのが、飴のコマーシャルソングだ。「?・・・コッコ飴だぁー、坊ちゃん嬢ちゃん、お土産にィー、買ってお帰りコッコ飴だぁー、おまけに滋養がドーッサリヨー」

と言うような文句で、これは見る間に分隊中で大ヒットした。
 またある時、隣の二二四分隊と合同で演芸会を行ったことがある。その時は、出演者で特別に芸のうまい人にはみかんの特配があった。私も、みかん欲しさに剣舞「川中島」(これは国民学校六年生のとき学芸会で踊った事があった)を踊ろうと思い、申し出た。しかし詩吟を唄ってくれる人がいなければ踊れないので、「誰か詩吟を歌ってくれる人はいませんか」
とみんなにお願いしてみると、誰も唄ってやろうと言う人はいない。すると二二四分隊の徳田教員補が「誰も唄う者がいなければ俺が唄ってやろう」と言ってくださった。
 朗々とした美声に会わせて唄い終わると、みんなから盛んに拍手をもらい、ご褒美にみかんを二個頂いた。一つを隣にいた高須さんに上げたような気がする。
 ワイワイ言いながら楽しい日曜日は過ぎていくのである。

【練兵場で行われたいろいろな行事】

 練兵場では、いろいろな行事や式典、分隊対抗の競技等々があったが、その中でも毎日朝昼晩、食事前の駆け足と、海軍体操は印象に残っている。
 冬の寒い朝、暗いとき(6時)から飛び起きて、練兵場にて各分隊の点呼、姓名申告の後、上半身裸で駆け足をするのも辛いことの一つだった。寒風がピュウピュウ吹き荒む朝、点呼、姓名申告が終わった後、班長や教員補に「上半身脱げ!」と大声で命令される。練習生たちは寒いものだからモゾモゾしていると、「何をやっとるのだ遅い遅いっ! 早く脱げ」と怒鳴られてしぶしぶ裸になり、つめたい風にさらされて練兵場を駆け回るのだった。
 そのとき、いつも我々の先頭に立って走っておられた西岡教員補の分厚い背中が今でも忘れられない。
 余談になるが、西岡さんは平成8年頃だったか、奈良で行われた分隊会(毎年行われている同窓会)の際出席されていて、私たちと昔話に花を咲かせ楽しいひと時を過ごした。当時の厳しい面影は残っていたが、あの野牛のような勢いはすっかり失せていた。肺気腫を患っておられるとのことだが、いつまでも元気でいていただきたい。
 話を元に戻そう。練兵場では各分隊単位の駆け足の競技も行われた。我々虚弱者分隊は(防府海軍通信学校に入って身体検査が行われ、体の貧弱な者をまとめて編成したのが、われわれ223分隊。俗に虚弱者分隊と呼ばれた)他の分隊に負けまいと一生懸命走った。上位こそは入れなかったが、だいたい1/3くらいの順位には入っていた。この時いつも先頭にたち、分隊旗を持って走っていたのが武居幸夫さんだった。彼は走ることが大変得意で、みんな遅れまいと彼の後を一生懸命ついて走った。
 武居さんは分隊会に出席のときはいつも奥様同伴でおいでになる。いつの時だったかその話をすると、走ることは誰にも負けない自信があったと話してくれた。
 手旗信号、気旒(きりゅう)信号などの競技も練兵場で行われた。手旗信号の分隊対抗競技では16分隊(総勢2400人)中で我々223分隊が優勝した事があった。
 平素は虚弱者分隊などと侮られていても「山椒は小粒でピリリと辛い」のであった。

【秘密】

 これから記す事は、ほかの人も経験した事があると思う。しかし、このことは当時は絶対秘密にしていて、もしバレルと相当な罰を受けることなる。(禁固刑?)しかも自分ひとりだけではなく関係した者が何人か対象になるはずだ。
 その秘密とは、防通校に入って何ヶ月か経つと、練習生の中には伝(つて)を頼って故郷の家と内緒で連絡を取り付ける者がいた。その方法は自分の分隊、もしくは他の分隊の班長とか分隊長、分隊士またはそれに類する者、もしくは学校関係者等を介して自分の故郷の家へ、内緒で書いた手紙をポストへ投函してもらう。すると、家からその手紙の要求どおりの食べ物とか、その他校内では手に入らない物を仲介人の手元に送ってくる。それをこっそり受け取って、食べ物はその場で食べたり、持ち帰りの出来るものは兵舎に持ち帰ってこっそり食べたりするのある。

 そういうチャンスが私にも巡ってきた。ある日仲のよい高須さんか「おれの知った人に頼んでやるから、お前も家へ手紙を出してみい。でも、ばれたときは知らんぞ」私はちょっと迷ったが、思い切って手紙を書き高須さんにお願いした。
 何日か経ってそのことを忘れかけていた頃、高須さんの仲介人へ、私の家から小包が届いたと言う知らせがあった。二人は一緒に受け取りに行ったのだが、練兵場を横切って行った記憶があるので北校舎の方面だったろう。
 包みを受け取り、人のいない物陰に隠れるようにして二人で開けてみると、ノートやその他いろいろなものが入っていたが、その中から麦芽糖で作った飴玉が、大きな茶筒にいっぱい入っているのが出てきた。(食べ物以外にもいろいろ入っていたのだが、食べ物のことで頭がいっぱいになっていたので飴玉のことしか覚えていない)二人は大喜びでうまいうまいと言いながら口に頬ばった。でも、一度に食べてしまうのは量も多いし、もったいないので半分ほど持って帰ることにした。そして人目を避けるようにして時々出しては、仲のよい人にもあげながら食べた記憶がある。
 その後、なぜ小包が忘れかけた頃に届いたのかと考えてみると、家の者にしても、私の手紙が届いてそれから麦芽糖を作るとなれば、まず最初に麦を発芽させそれを乾燥し、でんぷんと混ぜて煮込んで麦芽糖を作るのであるから日数もかかるわけだ。
 このような事が班長にでもばれたら大変なことになるので、知らん振りをしていたが、当時の班長たちはうすうす感じていたらしい。
 戦後何年か経って、防通校時代、日曜日に一緒に散髪をしあった安田さんにこのことを話すと「おれも二二一分隊の分隊士(貝原少尉)を通じて何回かそのような事があった」と話してくれたのだが、当時仲のよかった二人だったのに、そのことをなぜ話してくれなかったのかと、少し腹が立つ。

【防通校の授業】

 学校では、毎朝、昼、晩、雨の日を除いて食事30分くらい前から、駆け足と海軍体操を行ったが、その間の時間はほとんど通信の送受信訓練に明け暮れた。1週間に2時間くらい座学の時間があり、通信規定(これを勉強するとき、時々日本海軍の秘密を記してある本を貸与してもらい、他へ知られてはいけない秘密の通信方法など勉強した。この本は秘密の度合いによって「軍機」〈この本は我々は見たことがなかった〉「軍極秘」「極秘」「秘」と分かれていて、取り扱いは厳重を極めた。そして通常「赤本」と呼ばれいた。それは全部赤い表紙で作られていたからである。「秘」は白い表紙だったかも知れない)無線理論、一般教養講座(簡単な国語、算数、ローマ字)等があった。予科練は中学3年以上の学力を有するものとされているのに、どうしていまさらローマ字の勉強かな?と不思議に思った。
 送受信の勉強は、最初モールス符号から習った。この符号を覚えるのにみんな大変苦労した。
・― (イ) ・―・― (ロ) ―・・・ (ハ) と覚えていくのだが、一応覚えるには覚えられたが、この方法で1分間に60字も70字も受信することはとても不可能と思われた。(卒業時の送受信速度最低規定は受信が1分間90字、送信が1分間75字と決められていた)1週間ほど一生懸命頑張ってみたがとても上達の見込みが立たず悲観に暮れていた。その時ふと思い出したのが
・― ・―・― ―・・・ ―・―・
「伊藤(イ)」、「路上歩行(ロ)」、「ハーモニカ(ハ)」、「入費増加(ニ)」
 この覚え方だ。これは中学二年の頃、悪戯にちょっと覚えたことがあった。しかしこの方法はスピードの上達に問題があるとのことで、当時の海軍では廃止になっていた。「溺れるものは藁でも」と思い前述の方法で受信してみると、案外スムースに受信できる。廃止されている方法で受信することに後ろめたさを感じながら練習していると、とうとうそれが身についてしまって、終戦までずーッとそれで通してしまった。しかしスピードに問題が起きたとは一度も思はなかった。ちなみに私は学校を卒業する頃には、受信最高速度は1分間120字、送信速度が90字くらいに上達していて、これは分隊内でも誇れる成績であった。
 学校での送受信訓練は主に和文だったが、実施部隊(東京通信隊)の送受信は終戦まですべて数字の暗号電報だった。
 話を元に戻そう。受信訓練をはじめて1ヶ月ほど経って送信の訓練をはじめた。この訓練は受信以上に難しく、やっと1分間に50字くらいの速さで打てる(電鍵でモールス符号を送ること)ようになったのは3ヶ月も経った頃だった。座学では無線理論も当時は一生懸命習って、フレーミングの右手の法則とか、その他いろいろな難しいことも覚えていたのだが、いまでは、そのかけらほども思い出せない。無線理論で思い出す事がある。当時我々を指導してくれていた清水教員補が休みの時間などには、その本を開いて一生懸命勉強しておられた。

「よく勉強が出来ますね。」とお尋ねすると
「おれは、高等科へ行くつもりだ」
とおっしゃられたのを聞いて、自分も行きたいと言う願望を抱くようになった。
 私たちが勉強している通信学校を卒業すれば、「普通科卒業」と言う認定をしてくれる。そして、優秀なもので勉学の志のある人は、その上の「高等科」で再び勉強することが出来る。練習生にとっては「高等科」は憧れの的だった。ちなみに我々の班長、後藤上等兵曹は高等科卒業で、腕には八重桜のマークの入った腕章をつけていた。(高等科は八重桜、普通科は一重桜)
 それから二ヶ月ほど経ったある日、後藤班長に
「私は高等科へ行きたいのですが...」とお尋ねしてみると、
「高等科は最近廃止になったよ」と教えてくれた。そのとき大変悔しい思いしたことを未だに忘れない。前述の清水さんに戦後お会いしてそのことをお尋ねすると
「自分も、高等科が廃止になって行くことが出来ず悔しい思いをした」と言われた。
 その他に、国語の勉強もあったが、このときの先生は背広を着ていたので、民間の人か、軍属の人だったかも知れない。とにかく防通校で習った座学は今ではほとんど覚えていない。

【苦節8ヶ月、思いで多い防府通校卒業】

 防通校に入学した当時の弱々しい虚弱な少年たちも、毎日の厳しい訓練に耐えて立派な?帝国海軍軍人に育っていった。送信・受信の試験にも合格してやがて卒業の日が近づいて来た。その頃になると練習生の間では、どこの実施部隊へ配属されるだろうかと言う噂で持ちきりになっていた。誰も故郷の近い所へ行きたい気持ちは同じだろうが、でも、そんなに思い通りにはならないとは思っていた。
 やがて希望するところを書いて提出せよとのことで私は、第一希望、倉敷航空隊。第二希望、福山航空隊と書いて出した。
 倉敷航空隊は我が家から数キロのところにあった。また福山航空隊は福山市に写真館を営んでいる叔父さんがいたからである。
 二、三日経って発表があったが、思った通り希望通りにはならず東京通信隊行きとなった。大多数の人は、ほぼ希望通りか、もしくはそれに近いところだった。遠く離れた東京通信隊行きとなったのは二二三分隊では五、六名だけだった。なぜ我々だけが差別されたように遠方へ追いやられるのか、子供心にも悔しい思いでいっぱいだった。みんな、希望した近い所へ行けると喜んでいると言うのになんと言うことだ。でもまあー、一緒に東京へ行く連中もいるのだからええわ。幼い少年は諦めるのも早かった。
 それからまもなく7月10日に卒業式があったのだが、私たち東京通信隊へ行く者は7月8日、卒業式を待たずに学校を後にした。

【追想】
昭和19年11月15日、西も東も分からない15歳の少年は、マインドコントロールされて予科練に憧れ、採用試験で係官 の目をごまかしながらやっと合格したが、いざ出発の際壮行式に出席してくれた婦人会のおばさんの涙を見て一瞬寂しく なった。
 くじけそうになった気持ちを引き立てながら防府海軍通信学校に入校した。20年7月8日に卒業するまで約8ヶ月、寒さ と空腹とその上シラミとも戦いながら次第に逞しくなっていった。軍人精神も少しは入ったような気がした。 その後、東京通信隊で艱難辛苦と戦いながら終戦を迎えるのであるが、それは次の「私の実施部隊東京通信隊」に譲るこ とにする。


6 実施部隊 東京通信隊

 今まで防府海軍通信学校で経験した軍隊生活とは 、想像もつかない厳しい生活が待ち構えていた。
志賀赤痢と疑われ、入院生活を余儀なくされながらも 一生懸命軍務に精励し 10月14日無事に懐かしい我が家にたどり着いた。

【東通蟹ヶ谷分遣隊に一緒に行った友達】

 私が防府海軍通信学校を卒業して派遣された実施部隊は、東京海軍通信隊蟹ヶ谷分遣隊(以下東通とする)だった。
 防府海軍通信学校223分隊から東通に行った人は私を含め6人で、その中には同じ岡山県出身の三宅さん、熊本さん等がいた。他の分隊からも6名ほどの人が東通に派遣された。
 海軍に籍があった人はご存知だろうが、実施部隊とは、海軍に入隊して基礎教育を受け、その後、国の内外の部隊(艦船を含む)に派遣されるところを実施部隊という。実施部隊によっては厳しいところもあれば、和気あいあいのところもある。概ね艦船は厳しいところだったらしい。東通も前評判によればたいへん厳しいところで、「鬼の東通」と呼ばれ恐れられていた。評判どおりたいへん厳しい勤務に携わり怖いしごきにも耐えたのだが、そのことは後で詳しく述べることにする。
 東京通信隊の本隊は、丸の内の海軍省の中にあったと思う。分遣隊が船橋、戸塚、蟹ヶ谷にあって私たちは蟹ヶ谷へ行くことになった。
 蟹ヶ谷分遣隊は渋谷から東横線に乗り蟹ヶ谷駅近くの小高い丘の上にあった。そこで終戦を迎え、9月始め頃再び東通本隊に転勤になり10月9日まで勤務する。

【防府海軍通信学校に別れを告げる】

 さて、思いで多い防府海軍通信学校に別れを告げたのは、戦争も敗色濃くなった昭和20年7月8日午前10時頃だった。出発前、烹炊所からご飯を貰って3食分のおにぎり弁当を作って持っていった。東京まで順調に行っても2日はかかると思うのに、これだけの弁当では腹が減るだろうなあーと心細さを感じながら支度をととのへ、ちょうど昼頃三田尻駅から汽車に乗った。昼の弁当は友達とわいわい言いながら楽しく食べたのだが、夕方広島駅を通過する頃弁当を食べようとして広げてみると、梅雨ということも手伝って全部腐っていた。いくら腹が減っても腐ったものは臭くて食べられないので泣きの涙で捨ててしまった。それから東京へ着くまで何度も空襲警報に遭い、到着まで3日もかかり、その間5,6枚の乾パンと水だけで飢えをしのいだのである。
 東京へ到着するまでに通過した主な都市は、ほとんど空襲で焼かれてしまい東京についてみると、ほんとうに一面の焼け野原になっている。わたしは今まで日本はどんなことがあっても最後には勝つんだと信じていたが、この様子を見て、これはもしかしたら負けるかもしれないと一瞬不安に駆られたが、でも本当に負けるとは思はなかった。
 今回、防府通信学校から蟹ヶ谷へ行った人の中には、われわれ予科練以外にも一般の兵隊も10人程いて、その中でいちばん先輩の某兵長が引率していってくれた。でも後の話になるが、この人は8月14日終戦になる前の夜、脱走してしまって、この人と同じ部署で関係のあった人たち15~6人は、連帯責任(同じ部署の中の者がミスを犯すとその部署皆の責任になる)で三つずつバッターを貰った。(野球のバッターのようなもので尻を殴られてしごかれること)その中に私もいた。このことは後で詳しく書くことにする。

【蟹ヶ谷分遣隊】

 私たちは途中空襲警報に遭いながら、やっとの思いで足掛け3日のくるしい旅を終え、日も暮れて8時頃蟹ヶ谷分遣隊に着いた。到着後いろいろな手続きを済ませ、割り当てられた部屋にやっと落ち着いたのは9時過ぎだった。
 防府通信学校から持ってきた大きな荷物を解いて、ベッドに入り(2段ベッドで私は上段)ウトウトしていると突然空襲警報が発令された。皆急いで飛び起き、勝手のよく解からない暗い中を誘導され広い部屋へ連れて行かれた。
 なにしろ着いたばかりのことなので、この分遣隊がどのくらいの広さか、何人くらいの隊員がいるのかまったく分からない。その広い部屋には30人あまりの人が集まっていた。後で分かったことだが、隊員総勢5~60人で隊長は某大尉、分隊士は某少尉、甲板士官は某少尉、その他2~3人士官がいたかも知れない。他のものは20名くらいずつ3班に分かれて、各班に班長、助手、甲板下士官等、下士官が15人くらいいた。あとは古参の兵長以下一等兵までの兵隊で占めていた。私たち予科連出身者は軍歴は短いのだが進級のほうは早く、同時代の一般の兵隊はまだ上等兵になったばかりなのに一級上の兵長になっていた。

 余談になるが、予科練出身者は普通の兵隊より進級が早いので、みんなから羨ましがられ少々妬まれていた。当時の話では、予科練出身者がなぜ進級が早いかというと、短期間のうちに飛行訓練を受け、やがて早いうちに戦で死んでしまうのだから(パイロットは普通の兵隊より死亡率が数倍高い)進級は早くすべきと言う事になっていたらしい。私は予科練を志願する際、やがては早いうちに戦で死んでしまうのだから進級は早く・・ということまで考えていなかったが、進級の早いことも少々魅力であった。しかし私は幸か不幸か通信の方へ回され地上勤務となったのである。

 閑話休題、ここには捕虜が12~3名いた。どこの国の人か知らなかったがアジア系の人ではなかった。我々とは別の建物に入っていて、その中には受信機のような機械が数台並んでいた。どんな仕事をしていたか知らなかったが、噂によれば敵の通信を傍受させているとのことだった。当時国際法で捕虜を戦争に直接使用してはいけないことになっていたのだが、真相は定かではない。

 その捕虜たちは時々畑で草取りをしていたことを見かけたことはあったが、通信業務に携わっていたことは見たことがなかった。また、彼らが住んでいる建物はかなり大きな建物で、中でいろいろな仕事も出来るような規模だった。建物の外では日本の兵隊が(我々の同僚)1人? 銃剣を持っていつも見張りをしていた。私たちはあまり近寄ることを禁じられていたが、それでも捕虜達の生活は案外自由のようであった。わたしも時々すれ違いざまに「ハロー」と声をかけたり、相手からも「こんにちわ」と通りすがりにたどたどしい日本語で声をかけられたこともあった。

 その捕虜たちは戦争が終わって8月20日前後に、幌つきのトラックに載せられていずこともなく連れて行かれ、それを見送った我々はみんなそれぞれの思いをめぐらせたのだった。
 話を元に戻そう。空襲警報が解除になったのは夜明け前で、わたしたち実施部隊の少々みじめな第一夜はこうして明けていった。

しかし、それからの毎日のきびしい軍務は、第一夜のみじめと言うような生易しいものではなかった。

【蟹ヶ谷分遣隊の生活】

 朝6時起床。兵舎の前へ並んで点呼があり、当直(通信業務)に携わる人以外は、近くの丘をくり貫いて防空壕を造る作業に従事する。
 防空壕といっても人が入るだけでなく、なかへ送信機や受信機を搬入して、当直にたつ人はその中で業務を行う。この度、新しく入隊したものは、隊の雰囲気にもなれるため5日ほどは当直業務はなく、毎日防空壕掘りに精を出した。当直に関しては後に失敗談やらいろいろ述べることにする。
 防空壕堀りといっても、丘をくり抜いてトンネルを作る作業だが、今のように土木機械等は一切なく、全部スコップ一つを持っての手作業だ。私たち15,6歳の少年たちはスコップを持ち、或いは掘った土をモッコに入れて2人で担ぎ、トンネルの奥ら50メートル程の距離を外まで運び出すのだ。
 そんな作業を1日中やって、やがて腹をすかせた兵隊たちは楽しい夕食にありつけるのである。夕食を済ませた後は全員で掃除を行う。(甲板掃除と言う)
 ここまではそんなに取り立てて厳しいとか辛いとかは思はないのだが、これからベッドに入るまでの1時間程が恐怖の時間帯なのだ。この恐怖感は通信学校へ入って軍隊業務を終わり復員して家に帰るまでの間で、いや今まで80有余年の人生の中でも味わったことのない恐ろしい経験である。
 まず掃除が終わると古参の兵長が全員に整列(一箇所に集めて並ばせる)を命じる。我々は初めてのことなのでなんだろうかなぁと軽く考えながら所定の場所に行ってみると、4~5人のいかめしい顔つきの猛者が木刀とか直径5センチくらいの棒を持って立っている。中には直径10センチもあろうかと思われる松の丸太を持っているものもいる。

やがてその中の一人が
「今日○○時頃誰々が、または誰々何人が作業中かくかくしかじかの失敗をした。これは周りのものがよく注意していないからこのようなことになったのだ。これからそれらの者に制裁を加える」
と言ってその失敗した本人と、その関係の15〜6名の者をを棒で尻を力いっぱい殴るのである。これを海軍用語でバッターを振ると言う。
 いかにも恐ろしいような顔をした古参の兵長は地面を棒で突きながら、
「○○上等兵出て来い」(昼間失敗をした兵隊)と怒鳴られると、15~6歳のその兵隊は渋々と前へでて両手を上に上げ尻を突き出した。「このヤロー」と怒鳴りながら木刀を振りかざして思いっきり殴った。思いっきりとう表現では漠然とした言葉で、今ひとつ状況が伝わりにくいと思うので具体的に記すと、木刀で殴られたその人は、3回ほど殴られるとあの硬い木刀がポキンと折れてしまった。すると今度は前述の丸太を振りかざして殴り始め、8回ほど殴られると地面に死んだようになって倒れてしまうのである。そこで殴る側も興奮がやや収まって殴るのを止め、そしてその次からは殴る者共5~6人は交代で
 「次は一等兵から出てこい!」(一等兵が一番階級が下)と言われ、関係の者達15〜6人は一人3〜4発ずつやられるのだ。

 私も始めてやられた時は、直前の恐怖心と、やられた後の尻にしみいるような激痛に襲われて、本当にえらいところへ来たものだと非常に辛く悲しい思いに苛まされた。通信学校にいた頃2,3回やられたことがあるが、あの時は殴る側も軽く手加減してくれていたので、痛いには痛かったが、蟹ヶ谷に比べれば子供の遊びだった。
 やっとリンチが終わって開放され、それから風呂に入ることになるのだが、いっしょにやられた連中が裸になってみると、みんな尻に大きな紫色の痣をつけていて、お互いに苦笑し怖かった初体験をひそひそと話し合うのだった。こんなことが毎日大なり小なり行われているので、最初のうちは恐怖の連続なのだが、人間と言うものは不思議なもので、恐ろしいリンチにも次第に慣れてきて、自分ひとりがやられるのではなく皆共にやられるので、最初のような恐怖心は次第に薄れていった。
 でも、個人的な失敗とか悪事を働いた者(人のものを盗むとか、陰に隠れて作業をサボるとか)が徹底的にやられているのを見ると、もうあの人は死ぬのではないだろうかと思われる光景も何回か見た。

【蟹ヶ谷分遣隊の当直】

 このような毎日が5日ほど続いた頃、毎日トンネル堀りをしていた私達に当直に立つよう命令が出た。
 ここで当直について一寸記してみよう。当直は朝8時から昼12時まで、12時から4時まで、4時から夜8時まで、8時から午前0時まで、午前0時から午前4時まで、4時から8時までと6交代制で、当直そのものはあまり苦痛ではなかった。
 もちろん昼間の当直がいちばん楽でいいのだ。いちばん辛いのは夜12時から朝4時までの時間帯だ。夜12時と言うと10時頃眠りに入ってうとうとしていると、11時半頃、今までの人と交代するため起こされて当直を交替し、それから4時に当直を終え、申し送りとかいろいろ手続きを終わってベッドに入るのが5時前になる。そしてウトウトしていると起床ラッパに起こされるのである。だからその夜はほとんど眠ってないので頭が一日中ボーっとしていたたいへん気分が悪い。

 そんな時私は、「夜仕事をしたのだから昼間は休ませてくれてもいいのになぁ。軍隊と言う所は厳しい所だなぁ」と子供心につくずく感じるのであった。
 当直の仕事は、学校で習った事と同じような作業だが、学校での作業はあくまでも練習なので、少しくらいミスを犯しても班長に拳骨の一つも貰えば済むことだが、ここでは本当に軍務に携わるのである。自分のミスで海軍の戦闘に大きく影響することが起きるかもしれないのだ。そんなことを考えながら通信機に向かった時はたいへん緊張した。受信したのは第一放送か第二放送だっだったかよく覚えてないが、(第一放送も第二放送も海軍の中枢から発信される大事な電報)通信学校で習った実力を発揮するのはこの時とばかり一生懸命鉛筆を走らせた。

 全部数字電報だ。(0~9までの5桁の数字を並べた暗号電報)受信を終わった電報はすぐ暗号部へまわされ解読される。このとき、受信が上手く出来てなかったり、誤字、脱字があると暗号部からすぐ文句がくるので正確に受信するよう一生懸命だった。
 ある人は受信が非常にまずくて誤字、脱字が多く当直の班長から叱られ、他の人と受信を交替させられた。こうなるとその人はこれから先、ずーっと駄目な兵隊と変な目で見られるようになるので、恥ずかしいことこの上ない。幸い私はそんなことはなかったが、8月14日(終戦の前の日)の夜、とんだミスを犯してしまうのであるが、それは後ほど詳しく述べることにする。

【外出許可、下宿先が見つかった!】

 当直に立つようになった頃から外出、外泊が許されるようになった。やはり実施部隊は通信学校時代の練習生とは違うなぁ。一人前に扱われるんだ、だから一人前の仕事をしなくちゃーと改めて大きな責任と義務を感じざるを得なかった。
 半舷外出(朝出て、晩に帰ってくる外出)入湯外出?(語句が違うかも?)があり、半舷は週2回、外泊は週1回あった。今回防府通信学校からいっしょに来た者達は、外泊と言っても泊まるところもなく夜になると帰ってきた。古い兵隊達は近くの農家などに下宿さしてもらい、一晩泊まって娑婆気分を味わって帰ってくる人もいた。私はそれが羨ましくて何とか下宿先はないものかと常々思っていた。
 ある入湯外出の時、今日は下宿をさせてくれる家を探してみようと思い、近所の農家を一軒一軒お願いして歩いてみたがどこへ行っても断られ途方にくれた。
「こっりゃーだめだなー・・・。もう一軒お願いして駄目なら諦めて帰ろう」
と思い、広い道路から一寸入ったところにある、あまり大きい家ではない農家へ立ち寄り最後のお願いをしてみた。その家には65、6歳くらいのおばあさんがおられた。

「あのー・・下宿させてもらえませんか? 夕食も朝食も要りません。夜、泊まるだけでいいのです。朝6時過ぎには帰りますから・・」
藁にもすがる気持ちで恐る恐るおばあさんの顔を見上げると
「そうだねー。今おじいさんがいないので分からないから、帰ったら聞いてみるよ」と言われた。
「それでは夕方もう一回うかがいます」
といってその家を出たが、たぶん駄目だろうなあと半ば諦めた。そりゃあそうだろう・・・。戦局が厳しくなってきている現在、もしアメリカの兵隊がやってくるようになろうかという時に、兵隊を下宿をさすことなんか一寸無理な話かもしれない。(でも、そのときはそんなに深くは考えなかった)
 朝から何軒も家をたずねて歩き回ったので腹が減ってきた。時計を見ると12時を少し廻っている。ちょうど近くに小高い丘があったので、そこの見晴らしのいいところで弁当を食べようと思い(弁当は朝外出する際に烹炊所で握り飯を作って持参してきた)登ってみると、そこには小さなお堂が建っていた。その軒下を無断借用して弁当を食べながら
「今日の下宿探しはだめだろうなぁー。でも、あのおばあさんは駄目とは言わなかったから、もしかすると『いいよ』といてくれるかもしれないな・・でもたぶん駄目だろうなー」少年は小さな胸に不安を抱きながら弁当を食べ終えると、腹がふくれたのでごろりと横になって空を見上げ、「今家族はどうしているだろう。もう田植えも終わって、炎天下の水田で田の草取りの最中だろう。5年生の弟は家の手伝いをしているのだろうか。今年もうなぎ釣りをして遊んだことだろうなー・・・」目を瞑って遠い故郷のことを考えているといつのまにか眠ってしまった。

 しばらくして気がついてみると真上にあった太陽はもう西のほうに傾いている。よく眠ったものだと思い、眠い目をこすりながら起き上がって早速昼間行った農家へ出かけた。どうせ駄目だろうなと半ば諦めの気分で行ってみると、70歳くらいのお爺さんが帰っていた。他にも30歳くらいの男性と23歳くらいの女の人と20歳くらいの男の人もいる。
 そのときの家族の構成などについては、子供のことなのであまり深くは考えなかった。
 私はおばあさんに
「あのー・・・どうでしょうか?」と恐る恐るたずねると、
「おじいさんがさっき帰ってきてね、いいと言っているよ。だから今晩は泊まっていきなさい」と言ってくれた。

 私は夢ではないかとわが耳を疑ったが、夢ではない。そばにいた男の人も「上にあがりなさい」と言ってくれたので、嬉しくてたまらず座敷に上り久しぶりに畳の感触を味わったった。そしてその晩にはお姉さんの給仕で一家団欒の晩御飯もご馳走になった。夜泊めていただくだけでいいと思っていたのに・・・(それどころか朝になって、朝ごはんまでいただくことになる)おかずは何だったかよく思い出せないが、軍隊へ入って以来、ご飯は金(かね)の茶碗に一杯だけの盛り飯を食べていたのだが、今日は我が家にいた時と同じ瀬戸物の茶碗で、その上お姉さんに「お変わりは?」と言われたので、なんだか家に帰ったような気がして、もうこのまま居たいような気分になった。
 一度御飯のお変わりをして、もう一回お変わりをしたかったのだが、悪いような気がしてぐっと我慢をした。もともと泊めてもらえるだけでいいと心に決めていたのに晩御飯までご馳走になるのは、子供心にも一寸あつかましいなぁと思ったが、そこは子供のことだから、それ以上のことは深く考えなかった。
 夕食後いろいろ話をしたのだが詳しくは覚えてないが、出身地のことを聞かれたので岡山ですと答えると、
「『わたしゃ備前の岡山生まれ、米のなる木をまだ知らぬ』という言葉があるね。あれはどんな意味があるんだね」と男の人に尋ねられたが、
「よく意味は知らないのです」と答えた。そう言えばお父さんがそんなことを言っていたのを思い出した。
 1時間ほど雑談をして、蚊帳の吊ってある6畳ほどの寝間へ男の人と一緒に入った。昼間の疲れも手伝って少し話をしたような記憶もあるのだが、いつのまにか眠ってしまった。

 朝6時前目がさめてみると蚊帳の中に寝ている自分に一瞬わが目を疑った。隣に寝ていた男の人はもういなかった。いつの間に起きたのだろう。
急いで起きて、家の人に
「おはようございます」と声をかけ帰り支度を始めると、おねえさんに
「朝ごはんを食べて帰りなさい」と呼び止められた。
晩御飯をいただいてその上朝ご飯まで?と思ったが、子供のことゆえそんなに深くは考えず、おいしい味噌汁のおかずに、ご飯のお変わりをして
「一週間経ったらまたきますのでよろしくお願いします」
とお礼を言い皆の笑顔に見送られて、うきうきしながら帰途に着いた。

 その家は鹿島さんという農家で、野菜を作っていたように思うのだがその辺は記憶が定かでない。しかし、それから4〜5日たつと戦局が厳しくなって外出禁止になってしまった。
 やっと下宿先が見つかり、家族のものに囲まれて楽しいひとときが過ごせることが出来るようになったのに、なんということだ。返す返すも残念でならなかった。しかし、終戦後本隊に転勤になり、10月9日復員の命令を受けたちょうどその時、季節外れの台風に見舞われ、帰ることが出来ず鹿島さんにたいへんお世話になるのだが、その時はそんなことになろうとは夢にも思わなかった。そのことは後で詳述する。

【志賀赤痢?に罹り入院】

 戦局も次第に厳しさを増し、私達は毎日決められた作業と当直に明け暮れていた。もちろん毎晩甲板掃除が終わると、先輩からのしごきも欠かされることはなかった。
 そんな毎日を送っていた私は、ある日突然猛烈な下痢に襲われ血便が出だした。この分遣隊では看護兵が一人いて、ちょっとした病気や怪我はその人が手当てをしてくれるのだ私は看護兵に症状を話すと
「それは志賀赤痢だ、すぐ入院だ」用意もそこそこに、せかされながら隊所有の小さなダットサンの乗用車に載せられ、10キロほど離れた当時としてはかなり大きな病院へ連れて行かれた。
 志賀赤痢は、志賀という学者が発見した赤痢菌による赤痢で、当時は死亡率もたいへん高く恐れられていた。
 よくは覚えてないのだが、大きな建物が4〜5棟建っていて入院患者は軍人と民間人が一緒に入院していた。お医者さんの中には海軍の軍服を着た人も見かけたがあまり詳しいことは覚えていない。
 私の入った部屋は25歳くらいの民間人の男性が入っていて2人部屋だった。その人には奥さんか、それらしき人が毎日見舞いに来ていろいろ世話をしていた。それがとても家庭的というか人情的というか、砂漠のように乾ききった私の心に水がしみいるように暖かい潤いを与えてくれ、つかの間の娑婆気を味あわせてくれた。そして幼い少年は、遠い故郷の思い出を胸に抱くのであった。しかし、そんな感傷的な気分にいつまでも浸っているわけにはいかない。私は志賀赤痢患者ということなのだから。しかし入院の翌日から何回となく検査をしていただいた結果、赤痢菌はついに発見されなかった。結局「大腸カタル」という病名に変更された。

 1週間ほど経つと隣のベッドの人とも仲良くなって心身ともにかなりよくなった。特に心のほうは兵隊であることを忘れそうになった。隣の男性もあまり重病人のようには見えず元気な様子だった。そして毎日訪れる前述の女の人と、仲睦まじい光景に羨ましい思いをさせられたのだった。
 また、その人はたいへん頭脳明晰の人らしく、難しそうな化学の本を開いて勉強していたようだ。分厚い本を数冊持っていてその中には「面白い化学」というタイトルの本があったことを覚えている。
「塩出さん、化学を勉強すればおもしろいですよ」といってその本を見せてくれたが内容は私にはあまりわかるようなものではなかった。
 ある時、話題が病院の食事のことに及んで二人でいろいろ不平を言っているところへ、ちょうど看護婦さんがやってきた。
「看護婦さんよー。ここの病院の食事は人間が生きていくだけのカロリーがあるのかよー。こんなものを食っていたら病気なんか治るわけないだろう」
とたいへんな剣幕で食って掛かったのを覚えている。
 その食事と言うのは、ご飯が普通の茶碗に1杯くらいだが、中身は大豆が7割、うどんを小さく刻んだものが2割、米が1割の割合だった。他に野菜のおかずが2品ほどついていたが、でも当時としてはそれが普通かもしれない。

 そうこうしている内に、私は重大な決断を迫られる時が来た。
 10日ほどたったある日、看護婦さんが無情にも
「塩出さん、明日は退院ですよ」と部屋へ入るなりいきなり言われた。
「ええっ! もう・・」
「そう、あなたは菌は出ないし体力のほうも回復したし、明日昼食後退院です」
「でもまだ体がだるくて階段を上がるのがやっとなんですが・・」
「でもねー、先生がそうおっしゃられているのです。」
「しかし、このまま帰っても軍務に従事する体力がないですよ」
しばらく私の顔を見ていた看護婦さんは
「そうねー、じゃあもう一度先生にお尋ねしてみるわー」
というような話で、その後4日ほど退院を伸ばしてもらい、入院後2週間目に退院となった。でもまた、あの地獄のような生活の戻るのかと思ふと気分が非常に重く、病気が治って無事退院という喜びは沸かなかった。

【道に迷いそうになりながら元の古巣へ帰ってきた】

 昼食後、身の周りの整理をして病院を出たのだが、16歳になったばかりの少年は都会の真ん中へ放り出され、さて、どうやって蟹ヶ谷へ帰ったらいいのだろうかと思案に暮れてしまった。誰に尋ねたかよく思い出せないが渋谷まで言って東横線に乗るよう教えられ、市電に乗って渋谷駅に4時頃着いた。市電に乗った記憶があるから、病院はかなり町の中心に近いところだったような気もするが、病院の付近に畑があってトマトがたくさん熟れていた記憶もあるので、郊外にあったのかもしれない。東横線に乗って蟹ヶ谷の近くの小杉駅についたのは、日もとっぷり暮れた8時頃だった。
 駅から2キロほどの暗い夜道をたどりながらやっと隊門に到着した。途中の山道をよく迷わずに帰れたものだと思う。衛兵(門番)に姓名申告、帰隊理由等申し出て、自分達がいた兵舎に帰り同僚達と久しぶりの再会を喜びあった。入院中の出来事や、変更した当直のやり方など教えてもらったのだが、私は2週間も入院していた間に皆はすっかり隊の生活になじんでいて、自分ひとりが取り残されているような気がし、早くみんなに追いつかねばという気分に駆られた。

【久しぶりの当直で大失敗】

 一夜明けたその日は終戦前日の8月14日だった。今までの病院生活とは一変して朝から防空壕の穴掘りに従事したのであるが、入院中にすっかり体がなまってしまって、夕方までの作業は暑いことも手伝って非常にきつかった。
 一日の作業が終わり、夜になると私に当直が命ぜられた。2週間もブランクがあるので一寸心配だったが、それでもやれる自信はあった。
 午後8時前に当直室に入り、耳に受話器を当てた。どこの放送だったか憶えていないが、久しぶりに受話器から入ってくる信号に鉛筆を持つ指に緊張のため力が入った。
 発信者(ホヘ ー・・ ・)、本文(ホネ ―・・ ーー・―)とモールス信号が快い響きで耳にあてた受話器に入ってくる。1分間60字くらいのゆっくりしたスピードで送信してくるので、こりゃどうってことはないなと思いながら何通か受信していると、一寸受信音が途切れた。しばらく待っていると少し感度が弱いのだが非常に早いスピード(1分間100字くらいの速度)で送信してきた。しかし、自慢するようだが当時の私はそれくらいのスピードの受信はそれほど難しいものではなかった。だが、いままで1分間60字くらいのゆっくりとした感じの送信が、それまでとは打って変わって、感度も悪くスピードも急に早くなったので、てっきり他の通信所の電報が混信して入っているのだと思って、そのまま受信をせず本物と思われる電報が入ってくるのを待っていた。

 しかし、いくら待っても本物と思われるものは入ってこない。不審に思い隣の席で当直をしている先輩の兵隊にたずねた。
 その人はしばらく私の受話器を耳に当てていたが、
「貴様!電報を抜かしているではないか」と怒鳴られた。
びっくりした私はどうしたものかとおろおろしていると、先輩は当直下士官(20人ほどの当直している兵隊達の責任者。私より2階級上の一等兵曹)に
「当直下士官、こいつ電報を抜かしております」と注進した。
 当直下士官はすぐ飛んできて、私の席に座って電報をとり始めた。しばらく受信していたが一段落すると耳から受話器をはずし、
「なにやっているんだ貴様!さあ次を受信しろ」と受話器を渡された。慌てて席を交替し今度は間違いなく受信を行った。
 しかし、電報を抜かすということは、そのために軍隊の作戦にも影響する恐れもあるし、通信をつかさどる者にとって大変なミスで恥ずかしいことであった。そして、それ相当な罰も加えられることを覚悟しなければいけないことだった。防府海軍通信学校に在籍していた頃、私たちの班長から「絶対そんなへまをするな」と耳にたこが出来るほど聞かされていた。当時班長からそんな話を聞いても、自分はそんなことをやるはずがないと上の空で聞いていたのだが、いまその現実に直面してしまった。ああ情けないと思うと同時に、心配なことが持ち上がってきた。

 それは私に代わって受信をしてくれた当直下士官は、非番の時はみんなが恐れおののいている怖い甲板下士官(隊の中の風紀や、隊員たちの行動を監視する役目の人)なのである。そう言えば、時々問題を起こした兵隊をしごいているのを見かけたことがある。
 これは大変なことになったぞと思い、心配のあまり胸をドキドキさせながらそれでも残りの当直時間をどうにか勤め上げた。
 しかし当直中、当直下士官は別に私に対して何も言わず、変な態度も見せず当直を終わったのであるが、その何も言われなかったことが、その後起こるであろう悲惨な光景に思いを巡らし私は胸を痛めた。
 さて、当直を終わって当直室から出ると、思っていたとおり当直下士官に
「皆、表に整列しろ」と怒鳴られた。
 私はもう生きた心地はしなくなった。20名ほどの者が整列して待っていると、当直下士官の第一声が一寸おかしい。それは大体次のようなことだった。
「今晩、貴様等と一緒に当直するはずの某兵長が脱走した。これは貴様らの連帯責任だ。今日は気分を叩きなおしてやる。戸谷、前へ出ろ」
 戸谷という人は蟹ヶ谷では専任兵長(下士官を除いて40名ほどいる兵隊の中でいちばん古い兵隊)で、温厚で我々兵隊の中ではいちばん信頼されていた。戸谷さんがうるさく言っているのを見かけることはなかった。その人が最初に下士官の前へ出て鋭いバッターを3発貰った。

「次から貴様がやれ」
 今度はそのバッターを戸谷さんにわたした。
「ヨーシ、一等兵から出て来い」我々は次々に戸谷さんの前へ出て行って3発ずつバッターを貰ったのである。
 この某兵長と言うのが前述した、東京通信隊本隊から蟹ヶ谷分遣隊へ責任者として我々を連れて行った人である。軍隊から脱走すればほぼ100パーセントの人がつかまり、営倉(軍隊の刑務所)に入れられ、その後の運命は大変悲惨なものになる。しかしその某兵長は幸いなことに翌日終戦となったので、恐らくそのままのなったことだろう。
 皆一通りバッターを貰った後、さあこの次はわたしがミスを犯したことで、コテンパンにやられるんだと覚悟のほぞをきめていると、それっきり何事も起こらず解散となった。わたしは何となく後味が悪く不安な気持ちに駆られたが、そのことについては以後何のお咎めなく終わってしまった。終わってしまったと言っても、それはそうだろう、翌日は8月15日終戦の日なんだから。
 結局このバッターが蟹ヶ谷で受けた最後のリンチになったが、その後、東通本隊に転勤になってもう一度バッターを貰う羽目になる。戦争が終わってもまだ軍隊の階級制度があり、上下関係の厳しさが残っていた。それは後述することにする。

7 終戦

【重大放送があり、戦争に負けた】

 一夜明けて8月15日の朝、隊長より「今日正午からラジオで重大放送があるから、当直員以外は全員広場に集合して放送を聞くように」と簡単な通達があった。
 わたし達は何の放送だろうか。たぶん、敵が本土上陸するから皆死を恐れず一生懸命戦え。というような放送だろうなー。と話しながらいつものトンネル堀り作業に向かった。
 正午近くになってみんなぞろぞろ広場に集まり、やがて放送が始まったが、あの時日本中の人が感じたと同じように雑音がひどくてほとんど聞き取れなかった。わたしは断片的な言葉を聞いて、ああやっぱり、みんな「しのびが難きをしのび、耐え難きを耐えて」(終戦の詔勅の一部分)一生懸命戦えということかなと、理解しながら聞いた。
 放送が終わると2,3人の人が戦争が終わったんだと言い出したので、みんな急にざわめきだした。わたしは一瞬何のことかわからなかった。どうして騒ぎ出したのだろうか。何が終わったのか、何が負けたのだろうかくらいにしか思わなかった。
 それは当然のことで、小学校のころから日本は正義の国だ。大東亜共栄圏を創ってアジアの人たちと仲良くし共に発展をしていくのだ。日本は世界一強い国で、どこの国と戦争をしても絶対に負けることがない。日本の国は神様に守られている国で、いざとなったら神風が吹いて敵をやっつけてくれる。このようにマインドコントロールされてしまっているのだから、負けたと言われても本当にピンとこないのも無理はない。

 それから晩まで何をしたかよく憶えていないが、ただ捕虜の人たちは非常に喜んで自分達の部屋でラジオのボリュームを上げて、よその国から入ってくる電波を捉えてあちらの音楽聞きながら、歌を歌い楽しそうにはしゃいでいたのが印象に残っている。
 1日か2日たった頃わたしも半信半疑ながら負けたのかなー。しかし負ければ負けたで我々軍人は処刑されるか重労働に従事さされるか、いずれにしろ死ななければいけない立場にあるのだと、子供心にも悲壮な覚悟をした。これは本当だ。
 それでも年配の人たちは、これで故郷へ帰れると喜んでいたが、わたしは、昔から戦争に負けた国が戦勝国にどんなむごい仕打ちをされてきたかよく歴史で習ったはずだ。そんなに簡単に帰して貰えるはずがないと思っていた。

 しかし4、5日経つと隊員の気持ちも次第に落ち着き、いろいろな情報も入ってきて、もしかするとほんとうに自分も故郷へ帰れるかもしれないと思うようになった。
 8月15日を境に軍務(通信業務)のほうはやらなくなった。隊員は何をするということなくダラダラ、ゴロゴロしていた。食事のほうも急によくなり、今まで食べさしてもらえなかった缶詰類も出るようになった。いざと言う時のために蓄えていたものだろう。でも、腹を十分に満たすほどのものではなかった。
 1週間ほど経ったある晩、ひとつの事件が起きた。その晩は、我々は見たこともない酒が出された。わたし達は子供なので飲ましてもらえなかったが、古参の兵隊達は飲んで騒ぎ出した。その時
「今N兵長がH兵曹(兵曹=二等兵曹、一等兵曹、上等兵曹と階級があって、我々より上の位の人。H兵曹はわたし(兵長)より3階級上の人で上等兵曹)を刀で切りつけた」
と誰かの声がしたのでその方へ行ってみると、H兵曹が腕を抱えて医務室に飛び込んでいくのが見えた。このH兵曹と言う人は、平素かなりうるさい人で隊員から忌み嫌われていた。そのためN兵長が酒の勢いを借りて日頃のうっぷんを晴らすためにこのような行動に及んだのだろう。幸い命にかかわるような大怪我ではなかったが、それでも傷口を包帯でぐるぐる巻きにし、首に吊っている姿は痛々しかった。
 この事件があって以来、今までうるさく言っていた人たちは急におとなしくなり、酒もそれ以来出なくなった。それから何日か経った頃、年配の隊員の中から故郷に帰る者が出てきた。
隊長は帰る人を集めて
「これからは平和産業に従事して、日本を再建してくれ」
と励ましの言葉を送っていた。今まで口を開くと、この国を救うため我々は命を投げ出して戦おう。という意味の話ばかりだったのに、やっぱり戦争に負けたんだ。もう兵隊の役目は終わったんだと思うようになり、自分も早く帰りたい気持ちに駆られた。

【東京通信隊本隊に転勤を命ぜられる】

 しかし、そんなわたしの淡い望みは当分叶わないことになった。
 それは9月も過ぎたある日、突然数名のものに本隊へ転勤と言う命令が下った。その、中に私の名前も入っていたのである。戦争が終わって兵隊達は故郷へ帰れると喜んでいるのに、いまさら転勤でもないだろうと切歯扼腕したのだがどうすることも出来ない。他の者達はもう何日経つと帰れるぞと、そんな話ばかりしているのになんと言うことだ。残念で仕方がなかったが如何ともするすべもなく命令に従った。
 7名ほどの転勤する兵隊達は引率者に連れられて、丸の内にある東京海軍通信隊本隊へ赴任した。
本隊は旧海軍省の中にあって、当直室は頑丈な鉄筋コンクリートの建物の地下3階にいろいろな受信機や送信機が設置されていた。海軍の心臓部ともいえる場所なので、さすが蟹ヶ谷の防空壕とは比較にならないほど頑丈に出来ている。
 当直は一日おきに8時間の勤務で、内容は蟹ヶ谷と同じようなものだった。でも、機械設備は蟹ヶ谷とは比べ物にならないくらい多くの受信機が並んでいて、20名ほどの当直員がそれぞれ機械の前に座って送受信の仕事をしている。
 東京第一放送、東京第二放送(海軍の中枢より各基地などへ重要な連絡事項等を放送していて、各基地等はそれを細大漏らさず常に受信をしている大切な放送)など送信している人や、国内の各基地や、上海、シンガポール等の海外の通信所と交信している人もいる。一寸驚いたのは、といっても当然のことだが電文が今までは暗号の数字電報だったのが、全部平文(かな文字)になっている。(蟹ヶ谷で終戦になって以来始めて電文を見る)そして、改めて戦争が終わったことを痛感した。

【権威ある東京第一放送を送信する】

 さて私の当直で直接の仕事は、東京第一放送を送信している(古参の兵長で増田さん、21~2歳の人。私も同じ兵長だが海軍暦が2年も先輩)人のそばに腰掛けて、その補助的な仕事をするのである。主に、たくさん手元に並べてある電文の原稿を間違わないように、送信している人に順番に手渡す仕事である。間違って違う原稿を渡すと大変なことになるので、仕事は楽のように見えても大変気を使うのだ。渡した原稿を見ながら増田さんは、1分間60字くらいのゆっくりとしたスピードで、癖のない綺麗な送信をされている。東京第一放送と言えば大変重要な放送なので、全国、海外の基地等で受信している。放送も権威があれば、送信している人(増田さん)も立派な技術の持ち主が選ばれて送信しているので「さもありなん」と思った。
 通信も色々なやり方があって、送信と言えば読んで字の如く「送りっ放し」ということなので、電報を1度しか送らないのである。間違って送信したり、基地等で間違って受信すると訂正が非常に厄介だ。一方、交信と言う通信の方法は、電話と同じように相手にこちらの意思を伝えるとすぐその相手から返事が帰ってくるというやり方なので、こちらがよく理解できなかったら、すぐその場で相手に確認することが出来る。

 ある時増田さんが私に「どうだ、お前一寸打ってみるか」と言われた。
防府海軍通信学校在籍時代から、東京第一放送は大変権威ある放送であるとは常々聞かされていた。そんな仕事は一部のエリートしか与えてもらえないことで、とても自分達の想像もつかないことだ。でも、通信兵になったくらいだから一度はあの電報を打ってみたいなぁと言う気持ちは持っていたのだが、そんなチャンスが巡ってこようとは夢にも思っていなかった。
「はい。じゃあやってみます」恐る恐る電鍵(原稿をモールス符号に変えて送る道具)の前に座り、はやる気持ちを抑えながら打ち始めた。最初は緊張のため手首が硬くなって符号が乱れそうになったが、原稿を1枚打ち終わった頃には大分慣れてきた。4,5枚の原稿を打ってやっと大任を果たし、通信士冥利に尽きる満足感に浸ったのであった。

【楽しい外出】

 9月の末頃になると少し世の中も落ち着いてきて、私たちも非番の日は外出や外泊の許可が出るようになった。外泊と言っても私は泊まるところもないので、晩になると帰ってきた。外出の日は同じ予科練の同僚の妹尾さんと二人で焼け野が原の街へ外出した。
 当時東京では地下鉄は1本しかなく(他にもあったかもしれない)私達は虎ノ門から乗って浅草へよく遊びに行った。浅草の映画館が並んでいる一角は不思議にも焼け残っていて映画が上映されていた。そこで観た映画は、坂東妻三郎の「無法松の一生」、藤田進の「姿三四郎」、田中絹代、上原謙の「愛洗かつら」等があった。
 この頃の東京の街は焼け野が原の所々にビルの残骸が残っている光景だが、それでも夕方になると銀座、有楽町、新橋あたりにはどこからともなく人が出てきて、道端で日用雑貨など売っている小屋がけの店を見ながら歩いている。どこからこんなに大勢の人が出てくるのだろうと不思議に思うほどだった。店に並べてあるものは、食料品は一切なく、衣料品とか鍋、釜、履物などの日用品が主だった。

 食べ物と言えば2回ほど面白いことがあった。一度は、ある日外出してみると焼け野が原の片隅で大勢の人が行列を作っていて、なにやら順番を待っているようだ。なんだろうと列の先端へ目をやってみると、農家風の人が人目をはばかるようにドンゴロスの袋(太い麻の糸で織った袋。直径70センチ深さ1メートルくらい)の中から梨を取り出して売っている。人目を憚るのは、当時食料品はすべて統制品なので勝手に売ると警察にしかられるからである。
 その時私が驚いたのは、梨3個で10円で売っていることだった。10円と言えば当時のサラリーマンの1/5くらいの金額のように思えて本当にびっくりした。(地下鉄の料金が20銭だった)それでも飛ぶように売れているのだから当時の食糧事情は推して知るべしだろう。こんな高いものが買えるわけがないと諦め、その場を去った。

 もう1回の出来事は、こんども長い行列が続いているので何を売っているのかなーと思って近づいてみると、黄色なジュースのような液体を四斗樽に一杯入れ、それをかき混ぜながらガラスコップに注いで一杯1円で売っている。これは美味そうだなと思い行列の後に並んだ。順番がきたので1円払って飲んでみると、何のことはない、水の中へ味噌を入れて混 ぜただけのものだ。それでもみんなうまそうに飲んでいたが、私は吐き出してしまった。
 今思えばおかしいような話だが、当時の人はいつも腹を空かせていて、口に入るものと言えばなんでも飛びついて食べたり飲んだりしたものだった。そんな体験をしてない人は想像がつかないだろう。

【軍隊最後のバッター】

 ここでもう一度隊内での出来事を記してみよう。
 もう終戦後1ヶ月も経っているというのに我が隊では、前ほどではないが階級制度が厳然と残っていた。ある日食事の際、食卓番(食事の世話をする下級の兵隊)が某班長の飯の盛り方が悪かったと言うことで(めしの量が全体的に少ないので、一般の兵隊は自分の量が少なくしてでも、班長や上の人にはたくさん盛っていた)その班全員の者がバッターを3発ずつ貰った。今更バッターでもなかろうと思ったが皆おとなしく尻を差し出したのである。(尻を殴られる)これが本当に最後のバッターになった。
 海軍在籍中バッターとか色々なリンチを受けたが、半世紀以上も経った今、不思議とその加害者が憎くてたまらないと言う感じはない。むしろ懐かしい感じさえ起きてくる。こんなことを言うと同じ体験をされた方にお叱りを受けるかもしれないが、だとしたらお許しあれ。

8 復員

【朗報】

 そうこうしている間に私にも嬉しい知らせが舞い込んだ。待ちに待った復員の命令が出たのである。長い間待ち続けた朗報を受けて、心はもはや故郷の家族のもとへ飛んでいった。もうこれでバッターの心配もなく、御飯も腹いっぱいてべられるし、一番よかったと思ったのは死を覚悟していたのに死なずに済んで、これからまた新しい人生が開けると言う想いだった。
 昭和20年10月9日。その日は大変嬉しい日だった。お金(200円くらい)と白米2升、乾パン少々を貰って思い出多い東京通信隊を後にすることになったのであるが、また心配の出来事が起きた。

【また鹿島さんのお世話になる】

 それは季節外れの猛烈な台風が本土を襲ってきて、東海道線、山陽線の何ヶ所か不通になってすぐ家に帰ることが出来なくなってしまった。しかし、復員の命令が出た以上もう隊へも置いてくれないのだ。幼い少年は途方に暮れてしまった。どこへ行く当てもないし困ったなーと考えた末、思いついたのは蟹ヶ谷時代、外泊の際泊めていただいたあの鹿島さんのことだった。何はともあれ鹿島さんのところまで行って相談してみようと、色々な荷物の入った大きなリュックサックを背負い、昼過ぎ雨の中を東京通信隊を後にした。東横線に乗り換えやっと鹿島さんの家にたどり着いたのは夕方近くだった。
 事情をお話するとご主人は
「心配しないでいつまででも泊まっていきなさい」
と快く言って下さった。地獄で仏とはまさにこのことを言うのであろう。このときは本当に嬉しかった。鹿島さんにしても、15~6歳の幼い子供が家に帰れなくて困っている様子を見て可愛そうに思ってくれたに違いない。
 それから家族同様に接してもらい4日ほど経ったある日、もうそろそろ鉄道も復旧したのではないかと思い、近くを通っている南部線の武蔵小杉駅へ4キロほどの道を歩いて様子を聞きに行ってみた。当時のことであるから電話も一般には使われておらず、どうしたものかと考えた末、駅に行って聞くのが一番いいと思ったのである。
 駅の人の話によりと東海道線は復旧したが、山陽線の明石―大久保間がまだ復旧されていないとのことだった。まあ、一駅間くらいなら歩いてもどうといったことはない。何とかなるだろう。鹿島さんに何時までもお世話になっているわけにはいかない。帰ってそのことを皆さんにお話した。

【鹿島さんのご親切に感涙】

「長い間本当にお世話になりました。今日駅へ行って尋ねて見ますと、どうにか帰れそうなので明日は帰ろうと思っています」
「本当に大丈夫なのか?何時まで泊まっていてもいいんだよ」
「大丈夫です。あの時はどうしたらよいものかと思案に暮れていたのですが、今日までお世話をいただいて大変助かりました。ありがとうございました。」
こんな会話を交わしながら、その晩は特別なご馳走をいただいた記憶が残っている。
 翌日になって帰る支度に取り掛かった。といっても、身の回りのものを一まとめにしたリュックサック一つを背負って帰ればいいだけである。
 でも、順調に帰れても一昼夜以上かかるだとうと思い、食事のことが心配になった。そこで、東京通信隊を出る時貰った2升ばかりの米で、お姉さんにお願いして弁当を作ってもらうことにした。
「あのー・・、この米で弁当を作ってもらえませんか」
「そうだねー。じゃあおかずは何もないけど、おにぎりを作ってあげるわ」しばらくすると
「塩出さん、できたわよ。これを持ってお帰り」
なんと、お姉さんは2升の米全部をおにぎりに作ってくれていた。その上掘り立てのサツマイモをを炊いてくれ、大豆の煎り豆まで作ってくれて弁当と一緒に持たせてくれた。
「ええっ、こんなにたくさん...ありがとうございます」
「大丈夫?気をつけて帰るのよ。」
お姉さんの優しい言葉に私は嬉しくて何度も何度もお礼を言った。そしていろいろ会話を交わしているうちに、なんだか本当のお姉さんのような気がしてきた。お姉さんもそんな気持ちになっていたのではないかなー

 昼ごはんをご馳走になって皆とお別れの際、わたしはお世話になったお礼に東京通信隊を出る時貰ったお金を上げようと思い、いくら上げたらよいのか判断に迷った。(それはそうだろう。まだ16歳になったばかりの子供なんだから)「いくらの金額が適当なのかなぁ...」しばらく考えてみても子供のことだからよく分からない。
「50円くらいでいいだろうか」と思い10円札5枚をお爺さんに手渡そうとした。
「おじいさん、大変お世話になりました。これ少しですけど」
お爺さんはびっくりした顔で
「何言ってるんだ、とんでもない。そんなものは要らないよ。早くお金をしまいなさい」
と叱るように言われて断られた。
そばにいたお姉さんも
「塩出さん、そんなことをしなくてもいいの! 早くお金をしまいなさい。途中で落とさないように気をつけてね」
私は本当にうれしかった。途方に暮れていた少年を助けていただき、色々面倒を見ていただいたご好意は、50年以上も経った今でも決して忘れることが出来ない。あの時の情景は今でも頭にありありと浮かんでくる。

【もみくちゃになりながら、やっと家にたどり着く】

 みんなに別れを惜しまれながら家を出て東京駅に向かった。東京駅は買出しの人とか、帰国のためだろうか、朝鮮半島の人たちが大勢大声で叫んでいて大変混雑していた。大勢の大人達にもみくちゃにされながら、2時52分東京発大坂行きの汽車にやっと乗ることが出来た。車内はぎっしりすし詰め状態で、大阪駅に翌朝着くまで大きなリュックを背負ったまま、ずーっと立ち通しで一夜を明かした。
 大阪駅について通りすがりの人に
「岡山へ帰るにはどんな方法がいいでしょうか」と尋ねて見ると
「大久保と明石の間が不通だから、大阪港から徳島へ渡って帰えるといいのでは?」と教えてもらい、早速市電に乗って大阪港に向かった。
 着いてみると徳島行きの船は最近2度も機雷に触れて沈没したので、今は出航していないとのことだった。なんと言うことだと舌打ちしながら再び大阪駅に戻り、山陽線に乗って大久保駅まで行ってみると、明石までの不通箇所はトラックや馬車などで乗客を運んでいる。

 早速トラックに1円の乗車賃を払って乗せてもらい、昼頃明石駅へたどり着いた。昨夜汽車の中で弁当をを食べて以来、朝ご飯も食べていないので大変腹が減っていた。駅近くの空き地に腰を下ろし弁当を広げて食べていると、22,3歳くらいの男性がそばに寄ってきて座り、色々と話し掛けてきた。この人は南方方面(フィリッピンか、シンガポール)から帰る途中で、香川県丸亀まで帰るそうだ。
「じゃあ、私と同じように岡山から宇野線で帰ることのなるので一緒に帰りましょう」そう言いながら私が弁当を食べていると、彼は欲しそうに私のほうを見ている。
「昼ごはんは済んだのですか」と尋ねると
「いやぁ、昨日朝からなにも食べていないのです」
道理で物欲しそうな顔をしている。
「じゃあ私の弁当を食べてください。たくさんありますから」と言いながら、まだたくさん残っている握り飯を勧めた。
「そうですか・・・じゃ、いただきます」腹を空かしていた彼は目を輝かしながら喜んで握り飯を頬ばった。そして帰る途中いろいろな困難に出会った事など長々と話してくれた。(あの人は今どうしているだろうかなぁ)
 こうして腹ごしらえも出来、再び汽車に乗って岡山へついたのは10月14日午後3時頃だった。最寄りの駅(宇野線妹尾駅)で丸亀に帰る人と別れを告げ、1.5キロほどの道を歩いて家にたどり着くと、家のものはびっくりしたり、喜んだりして迎えてくれた。
 夕食は久しぶりに我が家での団欒となった。苦しい軍隊生活の様子や、帰る際に大変お世話になった鹿島さんのことなど夜遅くまで積もる話は尽きなかった。


9 追憶

【追憶】

 少年の頃みんなに見送られて家を出た時は、もう生きて再び帰ることはないと悲壮な覚悟で出立したが、再びこうして家族と楽しい生活が出来るようになろうとは、あの時は夢にも思っていなかった。
 80有余年の人生を振り返ってみると、少年時代に1年間の貴重な体験をしたことは、それ以後の人生にどれくらい役に立ったことだろうか。今まで長い間には、いろいろな困難に突き当たってくじけそうになったことも何回かあった。そのたびに苦しかったあの少年の頃を思い浮かべ、それに打ち勝ってきた。
 防府海軍通信学校で朝早くから起こされ、寒風吹きすさぶ練兵場を走り回り、日曜日には洗濯したり靴下の破れを繕い、腹を空かせながら厳しい訓練に明け暮れ耐えてきた。
 また、蟹ヶ谷では辛いしごきを受け、バッターでしりを殴られた夜は、尻が痛くて上へ向いて眠ることが出来ず、ベッドに伏さって寝た思い出や、志賀赤痢と言われ、病院生活を余儀なくされた事など、数々の懐かしい思い出が走馬灯のように頭をよぎっていく。
 そう言えばあの鹿島さんはどうしておられるだろうか。戦後何回か手紙を出してみたのだがうまく連絡がとれず、次第にその意識が薄れ失礼なことをしてしまった。もしかして私のお世話になりっぱなしで、それ以後何の音沙汰ないことを大変ご立腹ではないだろうか。半世紀以上も経った今頃、あの時はもっと調査の方法もあっただろうにと、返す返すも残念で自責の念に駆られる今日この頃だ。

【現在の心境】

 80歳を過ぎた正太は、毎日暮らしている生活の折々に、ふと60有余年昔の少年時代の事を思い出す。色々な懐かしい思い出が、頭の中を走馬灯のようにぐるぐると巡ってきて、しみじみと懐かしい思いに浸る事がある。
「懐かしいなー・・ もう一度あの昔に帰れないものか」
近所の人達から憐れみを受け、母親のいない寂しさに耐えながらも、蛙を取ってうなぎを釣っては遊び、暑い夏がくれは近くの小川で水遊びをし、寒い冬になれば弟と二人で練炭火鉢を囲んで、震えながら冷たい晩御飯を食べた。また中学校から予科練に入り、厳しい軍隊生活も経験した。そして淡い初恋に胸をときめかした少年時代もなつかしい。いろいろな経過を辿った中でも、彼にとっては新しいお母さんが来た事は少年時代、いや人生を通じての、一つの節目だった。

 今まで親子三人水入らずの中へ他人が、しかもお母さんになる人が入ってくるのだから、12歳の子供には年齢的な過渡期も手伝って、精神的な負担がかなり重かった。それは、この年にしては少々おませだった関係もあり、少し大人の世界の事(継母と継子の関係)も知っていたからかも知れない。
 あの時は小学校1年生の弟のように、純粋な気持ちでお母さんを受け入れる事ができなかった。お母さんにしても同じ気持ちだったに違いない。これから2人の継子を抱えて、上手くいくだろうか。世間の目はどうだろうかと、心配が尽きなかった事だろう。しかし、それもこれも今にして思えば、80余年の、歳月の流れの1駒にすぎず、その1駒1駒の繋がりが、もうすぐ終わろうとしている。もうあと幾駒を繋げるか知れないが、これからは、その駒の繋がりを大切にして生きたいものである。

 ー了ー