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思い出

(出来事は「文藝春秋戦後60年企画 特集昭和と私」より)

誕生の頃
 記憶は何処まで遡れるだろうか。父が一度目の応召から帰ってきた昭和19年私は西神戸の垂水で生まれた。1、2才のころ戦争中でもあり母は兄と私をつれて母の実家がある岡山県児島郡興除村に疎開した。古くから干拓が進んだ農村地帯で、小川に石橋が架かっており川浚いをしている人がいた。これが人生最初の映像記憶である。

昭和16年(1941) 12月 大東亜戦争・真珠湾攻撃
昭和17年(1942) 日本軍マニラ、シンガポール占領、ミッドウェー海戦、米軍ガダルカナル島上陸
昭和18年(1943)  2月 ガダルカナル島から日本軍撤退
 4月 山本五十六連合艦隊司令長官戦死
昭和19年(1944)  3月 インパール作戦開始
 6月 米ノルマンディ上陸 マリアナ沖海戦 岡山大空襲
 7月 サイパン島日本軍全滅 東条内閣総辞職
 10月 レイテ沖海戦 神風特攻隊初攻撃
 11月 米軍東京初爆撃
昭和20年(1945)  2月 米英ソ・ヤルタ会談
 3月 東京大空襲 硫黄島日本軍全滅
 4月 米軍沖縄上陸
 5月 ドイツ無条件降伏
 7月 米英中・対日ポツダム宣言発表
 8月 広島、長崎に原爆投下 ソ連対日宣戦布告 ポツダム宣言受諾
   終戦の詔勅放送
 マッカーサー元帥厚木に到着
 9月 ミズーリ号上で降伏文書調印
 11〜12月 GHQ指令・財閥解体、農地解放、国家と神道分離、修身日本歴史授業停止、教科書回収
 戦災孤児、浮浪児が激増
昭和21年(1946)  1月 天皇人間宣言
 4月 米軍沖縄に琉球民政府創設
 5月 東京裁判開廷 吉田内閣成立
 11月 日本国憲法発布

幼稚園の頃

 幼稚園のころ、私たち一家は姫路英賀保に住んでいた。遠くに姫路城が望まれた。近所には夢前川があった。兄や近所の子供たちに連れられ河口付近まで遊びに行ったことがある。河川敷にはクローバーが一面に生え、灌漑用のポンプ小屋からモーター音がうなりをあげていた。河口付近に大きな橋があったが途中からV字にぽっきりと折れ水中に没していた。うねりを持った海水がひたひたと橋を洗い、まるで橋を飲み込もうとしている様に見え怖かったことを覚えている。

 子供の頃の私は、余り丈夫ではなく、中耳炎や黄疸になったりした。母に連れられ堤防にオオバコを摘みに行った。これは煎じ薬になった。町にある日鉄病院(この名前も記憶に残っていた)や近所の病院によく連れていかれことを覚えている。あまり元気な子供ではなく親にすれば手の掛かる子だったかもしれない。

 幼稚園の女先生の名は「脇坂」と記憶している。昔の脇坂藩ゆかりの方かも知れない。
 姫路には有名な「妻鹿のけんか祭り」がある。重量感のある立派な神輿が出る。通りの2階家の軒先に届くほどで、金持ちの家にはわざとぶつけて壊すなどといわれた。太鼓の音はずしんずしんと腹に響き怖いぐらいであった。成人してから見物に行ったことがあるが、勇壮華麗といった印象の方が強く、幼児の時の印象がまるで変わっていた。

 そのころ大きな地震があった。茶の間の電灯と裏の木戸にぶら下げてある閂代わりの大きな釘が揺れていた。家々が壊れるほどではなかったが地震というものの最初の記憶である。

 幼稚園半ばで私たち一家は伊丹北部の緑が丘に転居した。母は伊丹小学校にある幼稚園に転入させようとしたが定員オーバーで入ることができなかった。我々の年代は1クラスが50〜60人が当たり前で、これは高校になっても変わらない。幼稚園は義務教育ではないので先生も手が回らず断ったのだろう。家で何をして遊んでいたのか記憶にはない。幼稚園以前の記憶というのは断片的で夢の中のようでもある。

昭和22年(1947)  3月 笠置シズ子「東京ブギウギ」大流行
 5月 日本国憲法公布
 10月 闇米を拒否した山口判事が栄養失調で死亡 三直宮家以外の皇族、皇籍を離脱
 12月 修正届け当用漢字に限定さる
昭和23年(1948)  1月 帝銀事件
 5月 サマータイム導入(昭和27年4月廃止)  6月 太宰治が玉川上水で自殺
 10月 昭和電工事件で芦田内閣総辞職、第二次吉田内閣発足
 11月 東京裁判判決(東条英機ら7名絞首刑)
 12月 岸信介、笹川良一、児玉誉士夫ら19人の戦犯容疑者が釈放さる
昭和24年(1949)  4月 GHQ、1ドル=360円の単一為替レート決定
 6月 東京都失業対策日当を240円に決定(ニコヨン)
 6月 ソ連からの引き揚げ船「高砂丸」が舞鶴に到着
 7月 下山事件、三鷹事件
 8月 古橋広之進全米水上選手権で世界新記録(フジヤマノトビウオ)、松川事件
 10月 中華人民共和国成立
 11月 湯川博士ノーベル賞受賞

小学生の頃

 昭和25年4月伊丹小学校に入学した。入学式当日は雨が降っていた。校庭の水たまりに桜の花が散り敷いていた。母は鮮やかな空色の着物と藤色の羽織を着ていたのを覚えている。教室に入ると油引きの床の匂いや父兄の晴れ着のナフタリンの匂いが入り交じっていたのを思い出す。私は幼稚園の後半は行っていないのでやや人見知りがつよく、また早行き(3月生)でもあり大勢の同級生に圧倒される気弱なこどもであった。クラスは50人以上で学年は11クラスあった。全校で3000人を超す児童がいた伊丹市で一番大きな小学校であった。校舎は軍艦を模したといわれるコンクリート作りの3階建てであったがいまは立て替えられ親しみやすい校舎になっている。道路を挟んだ東側は石垣で城跡の一部のようであった。その上に市立東中学校があった。

 緑が丘の家から学校まで2キロぐらいあったと思う。毎朝兄や近所の子供たちと歩いて通学した。途中には西宮と京都を結ぶ西国街道があった。当時はまだ地道で自動車もまばらだった。たまに自動車が通ると紫色の排気ガスの匂いがめずらしくわざわざその匂いを嗅いだりしたものだ。通学途中に千代田光学(今のミノルタ)があった。塀越しに大きなガラスの固まりが転がっているのが見えた。手が届く所にあると拾って帰ったりした。

昭和25年(1950)  1月 マッカーサー「日本国憲法は自衛権を否定せず」と声明
    1000円札発行
 2月 GHQ沖縄の恒久的基地建設開始
 3月 自由党結成(総裁吉田茂)
 6月 マッカーサー共産党中央委員会24人の公職追放を指令
    朝鮮戦争勃発
 7月 金閣寺全焼(放火) マッカーサー警察予備隊創設を指令
    GHQレッド・パージを開始
 11月 政府旧軍人3200人の追放解除を発表
 12月 東大評議会、戦没学生記念像設置を拒否
    池田勇人蔵相「貧乏人は麦を食え」

 平均寿命 男58 女61.4

 2年生の頃か、F君という友達ができた。学校の帰りに立ち寄って遊んだ。F君の家は大きく、広い廊下の端におもちゃ箱があった。いつも一緒に帰っていたので、それが先生からも好ましく見えたのだろうか。あるとき二人が呼ばれ写真をとってくれた。真ん中に先生、両側の我々の肩に優しく手をかけたポーズの写真が残っている。やがて先生は転校された。記念に残して下さったのだろう。子供の頃の友達は淡いものでその後F君や先生はどうなったかはわからない。先生は学生服の時もあったから見習い中だったかもしれない。名前は確か樋口だったと思う。

 家の前に自衛隊の中部総監部があった。当時は警察予備隊とか保安隊と呼ばれていた。松林が残る道路を進駐軍のジープが走り回っていた。父兄が自衛隊に勤めている同級生も何人かいた。
 家並みを外れると田園が広がり、瑞ケ池、昆陽池、千僧池といった感慨用の大きな池が点在していた。遠くには六甲山が望まれ、子供の目には池がその六甲山の麓まで広がっているように見えていた。ある夏の日、父が瑞ケ池へ連れていってくれた。池の中程に小さな島がある。幼い私と弟を背中に乗せて泳いで渡ってくれた。池の底には葦の枯れ草が沈んでおり、その間を台湾ドジョウが泳いでいた。というのは父がいきなり私を水中に浸けたので目をつぶるひまもなく見た光景で、私の水泳(?)初体験である。長じてから私はプールで息子を背中に乗せて泳ごうとしたがえらく体力がいるのがわかった。

 西国街道の両側は田園や池、それに行基ゆかりの昆陽寺があり風景もよかったので映画のロケなどもよく見かけた。ドーランを塗った股旅姿の役者がチャンバラを披露していた。

昭和26年(1951)  1月 NHK第一回紅白歌合戦 ダレス講和特使来日
 4月 マッカーサー解任、後任リッジウェー中将
 7月 アナハン島日本兵19人帰国
 9月 サンフランシスコ講和条約、日米安保条約調印
 10月 プロレスに力道山登場

 パチンコがブームになる


 小学校3年生の時、父の勤務先が倒産したのかもしれない。父は一念発起したのだろうか、尼崎市の北部にある猪名寺に移り住んだ。家は猪名川が藻川と猪名川に分岐する近くの農村地帯にあった。川の土手には竹藪が広がりケヤキや楠の大木のある森もあった。遠くには北摂の山々、西には六甲の山々が望まれた。この猪名川とか猪名野という地名は遠く万葉時代から登場するといわれている。宮崎駿さんの「となりのトトロ」というアニメがあったが、あの風景が展開していた。まだ戦後の名残が色濃い時代で、近所の寺の境内には進駐軍の若い兵隊が時々まわってきて、我々子供たちにゲームを教えたり一緒に遊んだりした。春には境内の桜の下で農家の男たちが牛共々花見をしたり、夏には盆踊り、秋には祭りがあり御輿がでたり、境内では演芸会が催されたりした。また夜には巡回映画会がときどきあった。土手のすぐ側に朝鮮人部落があり近所を通るとどぶろくの匂い、養豚場の匂いなどが漂ってきた。今思えば季節にメリハリがあり人々も生き生きしていたように思う。

 私は猪名寺に来てからも学校はそのまま伊丹の小学校に通った。仲良しの級友たちや先生と別れたくなかったし、担任のK先生も「ずっとこっちの学校にこいよ」と言ってくれた。親がどういう方法をとってくれたのか知らないがそのまま越境通学した。伊丹は城下町である。古い家並みのある植松という地区を通った。福知山線の線路脇に小さな鉄工所があり夕方になると仕事を終えた職人たちが褌ひとつで夕涼みをしたりしていた。踏切では蒸気機関車が列車を引っ張っていくのに出くわした。まだ自動車は少なく、往来を牛馬が荷車をひいていたりした。3kmほどの距離だったが途中に酒蔵や裁判所、八百屋、墓地などがあり変化にとんでいた。小学校卒業まで歩いて通学した。

 父は鬱蒼とした竹林を地主から借り受け開墾しバラック立ての我が家を建てた。それまでのサラリーマン生活から一転しての開拓村のような生活。今思えば大転身である。敷地は300坪ほどあった。来る日も来る日も鍬をふるい竹の根と格闘していた。やがて高さ2m、長さ10mぐらいの掘り出した竹の根の山ができた。私たち子供はその山にあがって遊んだ。竹の根が絡み合っているのでスプリングのようになりその反動が面白かった。竹の根が乾燥してくると風呂の焚き付けになった。竹には油が含まれており、よく燃える。節と節の間の空気が破裂して大きな音をたてる。

 父は養鶏場を作った。200羽以上いたと思う。孵卵器も自作してひよこを育てた。あるときブリキでできた電熱器のカバーに触るとビリビリと感電する。びっくりして父にいうと「そうか」といって笑うだけで修理をすることもない。機械に強い方ではなかったがケージや孵卵器、餌を炊く竈などすべて自作した。
 私たち子供の手つだいは近所の八百屋から魚のアラを貰ってきて庭に作った竈で炊く。それを飼料に混ぜて鶏に与える。父は養鶏の他に畑で様々な野菜を作った。当時珍しかったパセリ、セロリ、芽キャベツなどを作り中央市場へ出荷した。また畑にはサトウキビやトウモロコシ、トマトもあった。「なにかおやつない」というと「トマトでも食べておいで」と母によくいわれた。井戸で冷やしたスイカやキュウリはうまかった。葡萄棚もあった。米作りをする本格農家ではなかったが私が中学生になるころまでやっていたと思う。

 私たち兄妹4人を養うのは大変だったろうと思う。母は和裁で生計を助けていた。夕方仕事を終えた父が井戸端で体を洗い流し夕食につく。この頃のことを父は「赤貧洗うがごとし」と自伝に書いているが、子供の目から見れば、深刻に見えなかった。私たち子供は他の世界を知らず、家庭の経済状況も知らず、飢えも知らず子供同士で遊び喧嘩をし泣いたり笑ったりして大きくなったのである。

 この頃の私の楽しみは木琴だった。ラジオで聞き覚えた流行歌などをひいた。木琴には半音(ピアノでいう黒鍵)がついていないので歯がゆい思いがしたものだ。学校から帰ると夕食までポロポロとひいていたがよく母が我慢をしてくれたものだと思っている。ハーモニカもよく吹いた。譜面などは読めないが気に入ったメロディはすぐにひくことができた。

 -- 苦手なもの --

(1)脱脂ミルク
 学校給食の思い出といえばこれである。ドロッとした味気ないミルクだった。これがなかなか飲めなかった。先生が隣に座っているN君と私の腕を並べて出させ比較する。「また残したんか、見てみぃN君の腕、太いやろ」明らかに私の腕は細い。難行苦行でなんとか飲めるようにはなったが、腕の太さは追いつかなかった。喜んで飲まないと身に付かないのだろう。脱脂ミルクは当時食糧事情がまだ回復していなかったころ、米国など海外からの援助物資で、戦後の子供たちの大事な栄養源のひとつだった。
(2)マクリ
 当時は農業の肥料として人糞がひろく使われていた。我が家でも父が便槽から汲み出して野菜の肥料として畑にまいた。人体に寄生する回虫やサナダ虫などの卵が野菜といっしょに体内に入ると腸で成長、寄生し卵を産む。一種の食物連鎖である。寄生虫はいろいろな悪さをし、腹痛や栄養障害を起こす。ひどいときには脳にまで侵入するとかいって脅かされたものだ。マクリはこの寄生虫を駆除するために飲む。海草を煎じたドロッとした飲み物だ。これを定期的に給食の時に飲まされた。先の脱脂ミルク以上に飲むのは大変だった。苦くはないが独特の臭いがある。しかし効き目は確かで、翌朝には虫が肛門から這いだしてくるのだ。尻の穴がなんとなくムズムズして気持ちが悪いので手をやると虫が出てきているらしい。誰かに頼んで引っ張り出すわけにもゆかず自分でやるしかない。太さ5〜8ミリ、長いものでは20センチ以上あった。

 -- ラジオ --

 夜の団らんの楽しみといえばラジオである。ラジオは耳からの情報だけで無意識にいろいろなイメージをふくらませて聴いている。子供の頃は毎日のように連続ドラマを聴いていたし楽しみであった。思いつくままにタイトルを書いてみると・・・
「鐘の鳴る丘」「おらあ三太だ」「白鳥の騎士」「笛吹童子」「ヤンぼうニンぼうトンぼう」
「白鳥の騎士」では、ドクロかづらという秘薬を飲むか飲まされるかし主人公が善悪を彷徨うという話があったと覚えている。子供心に恐ろしいなぁと思った。「君の名は」これは大人が聴いていた。放送時間中は銭湯がカラになったというのは有名な話である。「アチャコ青春手帳」「お父さんはお人好し」花菱アチャコ、浪速千栄子の軽妙な大阪弁ドラマ。もう一度聴いてみたい。
 シリアスなものでは、北林たにえさんの「ハナという女(間違いかもしれない)」ストーリーは忘れたが、あのおばあさんの語り口は今も覚えている。藤山寛美さんがタクシー運転手になって世間話をするといったドラマも印象に残っている。
 バラエティでは「とんち教室」「話の泉」クイズでは「二十の扉」というのもあった。音楽番組では宮田輝さんの「三つの歌」があった。
 民間放送では毎朝、平岡洋一さんの木琴演奏を聴いた。また中村メイコさんが七色の声を駆使して連続ドラマをやっていた。
 今年(2005年)はラジオ放送開始80周年にあたるという。ほぼ昭和の始まりと同じだ。TVの特集番組では黒柳徹子さんが出演し当時の思い出を語っていたが、彼女も中村メイコさんもあのころと声は少しも変わらず、ずいぶん息の長い俳優さんである。

昭和27年(1952)  2月 たばこ「ピース」のデザインが鳩になる
 4月 日航機「木星号」が大島三原山に墜落 鉄腕アトム連載開始(少年)
   28日 対日講和条約、日米安保条約発効
 5月 皇居前メーデー事件 白井義男日本初ボクシングチャンピオン
 7月 ヘルシンキ・オリンピックに戦後初参加 破防法公布
 10月 警察予備隊から保安隊に改編
 11月 米・水爆実験成功

 流行語「ワンマン」、「ヤンキー・ゴー・ホーム」など
昭和28年(1953)  2月 NHK・TV放送開始
 3月 ソ連・スターリン死去 吉田首相「バカヤロー解散」 支那から引き上げ開始
 8月 公衆電話5円から10円に、赤電話登場 ソ連水爆実験に成功
 12月 水俣病一号患者でる 東京青山に初のスーパーマーケット「紀ノ国屋」登場

 街頭TVが人気、「君の名は」真知子巻き流行
昭和29年(1954)  1月 松下国産TVを発売
 3月 第5福竜丸ビキニ環礁で被爆
 7月 保安隊から自衛隊へ改組、防衛庁発足
 9月 洞爺丸座礁転覆1155人死亡
 11月 特撮映画「ゴジラ」
 12月 吉田内閣総辞職、第一次鳩山内閣成立

 三種の神器「冷蔵庫」「洗濯機」「掃除機」登場
 映画「七人の侍」「山椒大夫」ベネチア映画祭で受章
昭和30年(1955)  1月 トヨペットクラウン登場
 2月 革新系憲法改正阻止に必要な1/3議席を確保
 5月 紫雲丸沈没事故(宇高連絡船) 在日朝鮮人総連合会結成
 7月 ジェットコースター後楽園遊園地に登場 共産党大会に山腹中の野坂参三ら幹部登場
 8月 第一回原水爆禁止世界大会(広島) トランジスタラジオ登場(ソニー)
   森永ヒ素ミルク事件
 10月 社会党統一
 11月 保守合同し自由民主党結成
 12月 原子力基本法、原子力委員会法発布

 史上最高の米豊作(7903万910石) マンボ流行 神武景気始まる

中学生の頃

 中学校からは地元の中学校に通った。成績は平凡であったが音楽は好きだった。担任は音楽と英語を受け持つ年配のU先生だった。U先生は隻眼であだ名は「オバケ」といわれた。廊下などでほかの英語教師とぺらぺらと英会話を楽しんだりしていた。横笛とバイオリンがうまく、怪談もうまかった。ニックネームはここ由来すると思われる。音楽の時間はU先生が担当され横笛が教えられた。穴が6つ開いたシンプルな横笛で私はすぐに魅せられ熱中した。みんなの前でよく演奏させられた。おかげで音楽の成績は5をもらった。しかし2年生以降になると音楽はほかの先生になり楽典がはいってきた。音楽の法則は苦手で成績も平凡になってしまった。

昭和31年(1956)  1月 猪谷千春スキー回転銀獲得(伊・コルティナダンペッツォ冬季五輪
   石原慎太郎「太陽の季節」芥川賞受賞 直木賞・新田次郎「強力伝」、邱永漢「香港」  3月 日本住宅公団入居者募集を開始(大阪、千葉)
 5月 売春防止法公布
 6月 新教育委員会法をめぐって国会乱闘(暁の国会)
 7月 経済白書「もはや戦後ではない」
 10月 日ソ国交回復共同宣言調印 ハンガリー動乱 スエズ戦争勃発
 12月 日本の国連加盟承認さる 石橋湛山内閣成立

 「太陽の季節」映画化、長門裕之、南田洋子主演
 TV普及社会影響に関し大宅壮一「一億総白地化」が流行語に

 2年生頃から学校は荒れ、あまり楽しい思い出はない。しかし家ではよく遊んだ。夏休みには川遊びや池に行って水泳をした。池は川を渡ったところにある。竹藪ごしに水面に陽光が反射してキラキラと輝いている池が見えてくるとわくわくしたものだ。池は感慨用のもので水辺を掘ると川の伏流水が湧きだしてくる。夏の始めは池のコーナーを横切る程度であったが、夏休みが終わる頃には池を横断できるまでに上達しうれしかったのを覚えている。川もその頃は澄んでいて歩くと川底の砂が舞い上がり、その間をモロコや鮒が足をくすぐるようにすばしっこく泳ぐのが見えた。今のように紫外線がどうのこうのという情報もなくその頃の私たち子供は真っ黒になって遊んだ。夏休みを終えて2学期を迎えるころ日焼けしていないと肩身が狭いぐらいであった。しかし私はもともと中耳炎持ちで水遊びを禁じられていたが耳栓をしていても水が入って悪化し3年生の時また手術を余儀なくされた。以降大好きな水遊びができない夏はうらめしくなった。またあんなに遊んでくれた川も高度成長時代にさしかかるとあっという間にドブ川となり、川上でなにがあったのか水量も激減してしまった。

 村のはずれにあった我が家の周りにも家が建ちはじめる頃、近所から魚のアラを炊く匂いや鶏糞の匂い、養鶏場から発生する蠅の苦情が出るようになり養鶏をやめた。やがて父はピーナツバターをつくる食品会社に勤めベーカリーを相手の営業を始めた。父はバイクで神戸方面に営業活動した。走っているときに犬が飛び出してきて転倒、大怪我をした。私と弟で神戸西灘にある金沢病院に見舞いに行ったことがあった。まだ国道に路面電車が走っていた頃だ。電車に乗って二人だけで出かけたのはそれが最初であったと記憶している。

総天然色映画

 この頃、兄と一緒に尼崎の劇場に出かけ初めて洋画を観た。カラー作品であった。題名は「戦略空軍命令」主演はジェームス・スチュアート、ジューン・アリスン。ストーリーは覚えていないが真っ青な空をバックにした空中給油シーンが記憶にある。足の長いスマートな主人公と金髪のヒロインがいかにもアメリカ人といった風情で格好いいなぁと思っていた。もう一本はモノクロ映画で「彼奴は顔役だ」というギャング映画で、主演はジェームス・ギャグニーだったかと思う。こちらもストーリーはわからず、最後に拳銃で撃たれ雪のちらつく寒々とした階段で崩れるように倒れるシーンがあった。
 映画館は今と違って禁煙ではなく、タバコの煙でスクリーンが霞み、臭いもすごかった。

昭和32年(1957)  1月 南極観測隊「昭和基地」設営
 2月 岸信介内閣成立
 3月 チャタレイ裁判有罪判決
 6月 岸首相訪米、日米首脳会談共同声明発表
 7月 升田幸三将棋三大タイトル独占(ライバルは大山康晴)
 8月 東京都人口ロンドンを抜き世界一(8,518,622) 米地上軍日本から撤退を開始
   東海村原子力発電所操業開始
 10月 ソ連スプートニク1号打ち上げ ネール・インド首相来日
 12月 100円硬貨発行

 ナベ底不況、デフレ不況
 映画・嵐勘寿郎「明治天皇と日露戦争」
昭和33年(1958)  1月 インドネシアと平和条約 横綱若乃花
 2月 米地上軍撤退完了 ロカビリー旋風
 3月 関門海峡トンネル開通 文部省道徳教育を義務化
 4月 巨人軍長嶋茂雄公式戦デビュー
 5月 TV受信契約者100万を突破
 6月 東京の電話50万台を越える 阿蘇山噴火
 10月 安保条約改定交渉開始 王貞治(早実)巨人軍に入団 長嶋新人王獲得
 11月 東京ー神戸間「こだま」運転開始 正田美智子さん皇太子妃に決まる
 12月 1万円札発行 東京タワー完成

 フラフープ流行 ミッチー・ブーム 即席ラーメン発売


高校生の頃

 中学校生活の後半はあまり面白くなかったが、成績はまずまずであったので県立の高校に入学できた。高校に入っても慢性の中耳炎で毎日伊丹まで通院しなければならずクラブ活動にも、修学旅行も参加できなかった。唯一の楽しみは、修学旅行の代わりに買ってもらったギターであった。木琴や横笛と異なり本格的な和音が楽しめた。

昭和34年(1959)  1月 メートル法実施 第三次南極観測隊昭和基地の犬「タロー、ジロー」の生存確認
 4月 週刊文春創刊・表紙は美智子様 皇太子ご結婚
 8月 在日朝鮮人帰還に関する日朝協定調印
 9月 伊勢湾台風死者5098人
 12月 三池争議始まる

 水原弘「黒い花びら」第一回レコード大賞受賞
昭和35年(1960)  1月 新安保調印 民主社会党結成
 5月 自民党・新安保条約単独可決 チリ地震津波北海道、三陸被害
   ダッコちゃん大流行
 6月 安保阻止闘争で東大生4000人が国会構内に入る、樺美智子さん死亡、負傷者1000人
   33万人が国会へデモするも自然承認となり発効する
 7月 岸内閣総辞職、池田勇人内閣成立
 9月 カラーTV放送開始
 10月 浅沼稲次郎社会党委員長右翼少年に刺殺さる
 12月 国民所得倍増計画閣議決定

 CM「カステラ一番、電話は二番」

 そのころ民間放送がステレオ音楽放送を始めた。2局(朝日放送、新日本放送)が左右のチャンネルを受け持って同時に放送する。家にはラジオが1台しかないので片方の耳に鉱石ラジオのイヤホンを突っこみ、もう一方の耳をラジオのスピーカに頭をよせて聴いた。今のオーディオ装置と比べれば音質など粗末なものであったが、その時聴いた音の立体感や広がりは初めての経験でその素晴らしさに感動した。
 民間放送ではS盤アワーやL盤アワーなどがあって米国のポピュラー音楽、ヨーロッパのオーケストラをよく聴いた。

 音楽の他には写真にも興味がわいた。父の古い蛇腹式のブローニー版カメラがあった。また父の本棚に写真入門の分厚い手引き書がありそれを読みふけった。父も忙しい中、折にふれ我々家族を写真に撮ってくれていた。兄妹や和裁をする母、家や庭、養鶏場などを撮影したフィルムが今も残っている。そして私も写真が好きになった。

 高校も後半になるといろいろ悩み深くなった。今思えば思春期というものだろう。卒業後の進路も見えず、かといって進学したいとも思わなかった。そんな考えであったので成績もよくはなく、中の下といったところだった。公立大学に入れる成績でもなく、毎日医者通いで親に負担をかけるのも心苦しく、3年生は就職コースにはいった。今のように情報が溢れている時代ではなく、50人を超えるクラスではきめ細かな進路指導を仰げる状態でもなかった。情けないことに自分自身が何をやりたいのかさっぱり判らないから相談のしようもない。音楽や写真を仕事にしたいと夢のように漠然と思っていたが、それで自立できるほど才能があるはずもなかった。

 とにかく卒業すればもう自分で食べていかなくてはならない。何社か就職試験も受けた。迷いが顔に出ているのが自分でもわかる。なかなか決まらなかったが、何社か受けた後、やっと尼崎市内のベークライトの会社に就職が決まり高校を卒業した。


昭和36年(1961)  1月 ケネディ米大統領就任
 4月 ソ連ガガーリン少佐、宇宙船「ボストーク1号」で地球一周有人飛行に成功
 8月 大阪西成区釜ケ崎騒動 後に愛隣地区に名称変更
 10月 大鵬、柏戸そろって横綱に昇進 中学校一斉学力テスト
 12月 旧軍人らのクーデター計画発覚(三無事件)

 TV番組シャボン玉ホリデー、ザ・ピーナッツ、クレージー・キャッツが人気