見えない世界との向き合い方

昨日の時点であんなことを言っておいて何ですが、こういった目に見えない世界を信じる必要は特にないと思っています。

正確に言うと信じる信じないはあまり重要ではなく、考え方の本質を理性的に受け止めているかどうかのほうが大切だろうという意味です。

以前から注目している心理療法士の川畑のぶ子女史が、こういったスピリチュアルなテーマに対する理性的な関わり方について発言した内容が自分にとって一番しっくりくるので、少し長くなりますが引用します。

スピリチュアルな信念は、目に見えないものに対する信念であり、その人の宗教的信念、哲学的信念または人生観や死生観などに現れてくることがあると思います。

それらがどのカテゴリーに属するかはさほど重要ではなく、問題はそれらが信じる者の人生に健全に機能しているか否かであって、その健全性は信じている内容そのものよりも、それらとの関係性に大きく依存すると思います。

「スピリチュアルなものにはいったいどのような教えがあるだろう?」
「それらから私は何を学びとることができるだろう?」

という客観的な姿勢と好奇心を持って関わりあえるなら大いに役立つと思いますが、自分では解決できない問題の答えをなんでも解決してくれそうな「万能スピリチュアル」に求める依存状態では、信じている内容が何であれ、苦しみは繰り返されるでしょう。

まずは、スピリチュアルの内容そのもの以前に、それらに関わるご自身の姿勢を俯瞰視してみることをおすすめします。

誰かにとっての薬が果たして、自分にとっても薬なのか、それとも毒なのか。逆も然りですね。

栄養を摂るのに、お米が正解の人もいればジャガイモやパンが正解の人もいます。どれか一つが万能である必要はありません。心や魂の栄養も同じでしょう。米屋はお米がベストというでしょう。八百屋はジャガイモが、パン屋は小麦がベストと勧めるでしょう。それぞれの立場の正解があります。ですので鵜呑みにせずに、自身で試してみて、合いそうなものを選び抜いていく姿勢を育むことが大事ではないでしょうか。

ただし、飢餓状態のときはジャンクフードでもなんでも飲み込んでしまうように、心が飢餓状態のときは自分にとっての良し悪しの判断をしないまま、目の前に提供されたものをそのまま飲み込むということが起きがちです。

ですので、信じる対象そのものよりも自身の状態からそれらとの関係性が不健全になりがちということを意識して関わると賢明ではないでしょうか。
たとえば、カルマという概念の使い方も「カルマなんだから努力は無駄で諦めるしか無い」といった文脈にもつかえれば「努力によって変化を起こすカルマなのだ」という受け止め方もできるでしょう。

「感謝や詫びでことが済むなら世話無い」という考え方もできれば「感謝や詫びはシンプルに聞こえるが、エネルギーを要することで言うは易し、するは難し。だから私のみならず相手も簡単にはできないのだ」と理解を深めるきっかけにすることもできるでしょう。

「攻撃者はNOと言いにくい人を無意識に選びやすい」と聞けば、「NOと言わない私が引き寄せたのだから私がわるいのだ」と受け止めて自責感を募らせる人もいれば「そうか、エネルギーを使うし、波風はたつかもしれないけれど、NOのときはNOと言えばよいのか」と、変化を起こすきっかけと受け止める人もいるでしょう。

このように、いったいどのような姿勢でスピリチュアルに関わっているのかを全肯定も全否定もなく客観的な視点をもって問い直す姿勢は大事だと思います。周囲に信頼できる友人や家族がいれば、あなたのスピリチュアルに関わる姿勢が健全か否かを尋ねてみるのも良いかもしれませんね。

スピリチュアルに全てをゆだねて自分は努力をしない(スピリチュアルが全部やってくれる)という魔法の杖を求める姿勢は、信じる対象が何であれ結果は好ましく無いと思いますし、苦しみを助長させるでしょう。

私たちは皆、試行錯誤を繰り返しながら成長するプロセスにいます。ですので、矛盾するようですがそのことを信じて、瞬時に全てを思い通りに解決してくれる万能スピリチュアルを求める姿勢を手放すことで、より健全なスピリチュアリティが育めると思います。

このことから、スピリチュアルな取り組みも機能する人には対象が何であれ機能するでしょうし、機能しない人にはいずれも機能しにくいかもしれません。

自分のスピリチュアルと関わりあう姿勢を振り返りつつ、内容も盲信することなく、そのときどきで確認しながらどの部分は私に機能し、どの部分は私には合わなそうだから様子を見てみようなどというふうに柔軟に向き合ってみると良いのでは無いでしょうか。

色々と頭の中で巡らして、混乱してきたら最後はご自身の心の奥底の声(直感など)に従ってみるのが良いと思います。

スピリチュアルもその他の薬や治療も、依存するものでなく活用するためのものという姿勢で関わってみてください。

極論をいえば、あのミディアムが本物であるかどうかは実は重要ではなく、やり取りの中から自分にとって有益なものが得られたことが重要だと考えています。

それはそれとして、あのミディアムには少なくとも自分には見えない何かが見えているということだけは間違いなさそうだとは思っているのですが。