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朝来市 神子畑選鉱所跡 2014年6月14日(土)  曇時々晴れ  地図
1:ムーセ旧居
2:旧居と選鉱所跡
3,4:選鉱所跡
(鉱石運搬ケーブルカー軌道)
5〜7:シックナー(分離装置)

8:一円電車
9:同運転席
10:客車
11:鉱石貨車(5ton)

12〜15:神子畑小学校跡
16:山神宮跡
17,18:車両工場跡?

19:ムーセ旧居前の百日紅

朝来市 神子畑選鉱所跡
この日は「水上山」とその北にある「銅山」の二つを歩く予定にしていた。 水上山往復は、案内書では二時間四十五分の所要と書いてあったが、三時間をオーバー。
登山口に降りる最後の斜面でいよいよ膝が痛くなり、午後に行く予定の「銅山」はとりやめた。

来るときに通った、429号線沿いの朝来市神子畑(みこばた)選鉱所跡を見学した。
かつては近辺の明延鉱山、生野鉱山とともに東洋一の規模を誇る鉱山施設があった。

神子畑鉱山の歴史は古く、平安時代に開山し、15世紀から採鉱が盛んになった。最繁忙期は明治10〜30年代であった。明治40年以降は鉱脈が減少し、明治42年明延で錫鉱脈が発見されたことにより採鉱は明延に移った。
神子畑鉱山は明延鉱山の鉱石を選鉱する「神子畑選鉱所」として生まれ変わった。

全盛期昭和30年代、神子畑地区には1300人が生活し、福祉施設、娯楽施設なども充実していた。
昼夜兼行で操業し不夜城のような写真が残っている。
昭和62年、円高で国際競争に勝てず明延鉱山が閉山し、それとともに神子畑選鉱所も操業停止となった。

近代化産業遺産を地域活性化のために有効利用する取り組み(経産省)。
現在は山の斜面を利用した施設の建物は撤去され、階段状の土台やトロッコ軌道跡が残っている。
明治時代指導にあたったフランス人の旧居(旧神子畑鉱山事務所)が保存され、写真や模型が展示されている。
フランス人コアニエ(鉱山師)、ムーセ(地質家)の給料は、300円の高給取りだった(当時一般技術者が1円)。
(地元のボランティアガイド談)



■鉱石の道(近代日本の鉱山開発はここから始まった)
http://koseki-michi.com/model/index.html

■動画
美しき廃墟 明延鉱業神子畑選鉱所
http://www.youtube.com/watch?v=yd2hAu-hXkA

一円電車
http://www.youtube.com/watch?v=Ci9qEKjgYZk
神子畑に向かう鉱石を積んだ貨車(後半4分ごろ)