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内浦湾(北海道−12) 2017年7月7日(金) 晴れ 地球岬→伊達市→洞爺湖→恵山岬 地図
1〜4:朝の地球岬

5:白鳥大橋
6:室蘭港(陣屋町PAより)

伊達市・歴史の杜
7:入り口
8〜11:旧三戸部住宅 説明
12〜13:迎賓館
14:庭園のリス
15〜18:伊達家収蔵品
(開拓記念館)

19:洞爺湖
20:昭和新山
21:砂原岳(1112m)、駒ヶ岳(1131m)
(道の駅さわらより)
22:しかべ間欠泉
23:水無海浜温泉

北海道の朝は早い。4時には夜が明けている。(1〜4)
北海道一周も後半に入った。
今日は内浦湾をぐるっと回り亀田半島恵山岬まで行く。

室蘭港をまたぐ白鳥大橋を渡る。

1985年着工、1998年(平成10年)の完成と云われている。

R37を西進、「だて歴史の杜」の標識があったので寄ってみた。(7)
広い緑の敷地に、旧三戸部家住宅、伊達家迎賓館、開拓歴史館などがあった。
庭園の樹木を見上げていると、リスがいた。

伊達市歴史館
 亘理伊達氏 WikiPediaより
伊達宗家第14代当主伊達稙宗の子・実元を家祖とし、その子の成実が慶長7年12月(1603年2月)に亘理郡亘理城主となったのが始まりで、江戸時代を通じて家中最大の24,385石を領した。
第14代当主・邦成は戊辰戦争の敗北にともない所領を失うと家中を率いて北海道に移住して現在の伊達市を開拓。明治25年(1892年)にはその功を認められて男爵位を授けられ華族に列した。伊達市と旧領の亘理・山元・新地の三町は、「ふるさと姉妹都市」として提携関係にある。

伊達氏といえば仙台藩と思っていたが、傍流が幕末から明治にかけて北海道に渡り開拓した。
当時は蝦夷地は未開の地だったが、開拓し現在の伊達市の基礎を築いた。
伊達家の武具や書画が展示されている。
見学者は私一人だったが、ガイドが付いて説明していただく。(15~18)

隣に新しい歴史博物館が建設中


洞爺湖
 ここもカルデラ湖と云われ、中島がある。
湖畔のモニュメントのあるところでしばらく休憩。中島に遊覧船が行くのが見えた。

洞爺湖の南側に有珠山(733m)、昭和新山(398m)がある。
駐車場(有料)は結構な賑わいで、まごまごしていると「入るの、入らないの?」と係員にせかされた。
「うーん・・・やめときます」
「じゃぁ、早く出て、後がつかえてる」
「はいはい、わかりました」

南側にまわって国道から昭和新山を撮る。
昭和18年(1943年)から昭和19年にかけて、地震、隆起、噴火を繰り返し誕生したという。 自分と同い年。

R37は長万部でR5に合流する。内浦湾の南を回るころ前方に大きな禿げ山が見えてきた。
R5から海沿いのR278にはいる。「道の駅さわら」から砂原岳(1112m)、 駒ヶ岳(1131m)を見る。(21)

しかべ間欠泉に着く。(22)
パンフレットより
鹿部間欠泉は大正13年、温泉を掘っているときに偶然発見されました。自然の力だけで約100℃の温泉を一定間隔で噴き上げ続けています。一回ごとに噴き上げる量は500Lほどで、約10分ごとに15m以上の高さまで噴き上がります。
間欠泉は初めて目にしたが、90年以上も10分ごとに絶えることなく噴き上げるエネルギーは大したもの。広場に適温にした足湯があり、漬けながら見物。

地球岬から亀田半島恵山岬まで200km近く走り、夕方6時水無海浜温泉に到着。

駐車場が有り、浜に降りる途中に着替えのための小屋が設けられている。誰もおらず開けっ放しである。
云われるまでもなく素っ裸になって入ってみた。ぬるいがつま先で海底を探ってみると下から熱いものがわき出しているようだ。
掲示板によれば、満潮時には没してしまうと云う。今は囲いの岩から海水がどんどん行き来している。干潮時には暑くて入れないらしい。
想定していた南紀の「崎の湯」ほどの熱さはなく、しばらく浸かっていないと温もらない。

崖の上で鹿がなにかを食べている。
時々顔を上げては怪訝そうにこちらを見下ろしていた。

誰もいない駐車場で車中泊。
隣に家はあるが廃屋らしく、潮騒が聞こえるのみ。

(2017/08/05 記)