「孫文」日本における評価(WikiPedia)より
孫文(1866-1925)の評価は一見わかりやすいようでいて、実のところほとんど一定していないのが実情である。
1970年代以前は被抑圧民族の立場から帝国主義に抵抗した中国革命のシンボルとして高く評価され、特に1924年の「大アジア主義講演」が日本の対アジア政策に警鐘を鳴らすものとして絶賛的に扱われていた。しかし、革命への熱気が冷めた1980年代以降は、孫文の独裁主義的な志向性、人民の政治能力を劣等視するような愚民観、漢族中心的(孫文自身、漢民族の一つ・客家人である)な民族主義といった点が問題視されるようになり、現在の権威主義的・非民主的な体制の起源として批判的に言及されることも多くなった。
とりわけ孫文の評価を難しくしているのは、民族主義者でありながらまだ所有すらしていない国家財産を抵当にして外国からの借款に頼ろうとしたり、革命家でありながらしばしば軍閥政治家と手を結んだり、最後にはソ連のコミンテルンの支援を得るなど、目標のためには手段を選ばない運動のスタイルである。彼の思想である「三民主義」も、マルクス・レーニン主義、リベラル・デモクラシー、儒教に由来する多様な理念が同時に動員されており、思想と言えるような体系性や一貫性をもつものとは見なしづらい。もっとも、こうした場当たり的とも言える一貫性のなさは、孫文が臨機応変な対応ができる政治活動家であったという理由によって肯定的に評価されてもきた。
孫文には中国の革命運動における具体的な実績はそれほどなく、中国国内よりも外国での活動のほうが長い。彼の名声は何らかの具体的な成果によるものと言うより、中国革命のシンボルとしての要素によるものであると言える。孫文の活動した時代を扱った中国史の研究書の中でも、ほとんど言及がないものも少なくないが、これは史料の中に孫文の名前がそれほど登場しないというごく単純な理由による。実証的な研究の進展に伴い、孫文の研究は中国近代史全体を理解するためのものというよりも、「孫文研究」という一つの専門領域となっている傾向があると言えるだろう。
旧武藤山治(1867-1934)邸 (WikiPediaより)
旧武藤山治邸は、1907年(明治40年)に神戸市の舞子浜に建てられた、木造2階建コロニアル様式の洋風建築である。設計は、当時横河工務所に在籍していた大熊喜邦(後に帝国議会議事堂を始めとする多くの官庁建築を主導)が担当した。もとは、西洋館と和館が並立しており、特に西洋館は、隣に並んで建つ移情閣とともに地域のランドマークとして親しまれていた。
武藤山治の没後、1937年(昭和12年)に武藤家から鐘紡に寄贈され、社員の厚生施設「鐘紡舞子倶楽部」として利用されていた。しかし、明石海峡大橋建設に伴う国道2号の拡幅工事のため、1995年(平成7年)に西洋館のみが現在の狩口台7丁目に移築された。
2007年(平成19年)3月に、兵庫県は、建物とともに家具・絵画及び蔵書等調度品についてカネボウより寄贈を受けた。建物は、外観は移築時に一部新材にて再現されているものの、内部の仕上げ材や家具調度品は往時のまま保存されており、明治期の西洋館の住宅形式や生活様式を窺うことができる貴重な建物である。
2008年(平成20年)から舞子公園内に移築工事が行われ、2010年(平成22年)11月工事は完了しオープンした。同じ公園内には移情閣(国の重要文化財)や旧木下家住宅(国の登録有形文化財)、近隣に舞子ホテル(旧日下部邸)などの歴史的建造物が集中している。